まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

サイード『オリエンタリズム』覚書(1)

目次

はじめに

 この連載では、エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社ライブラリー)の読解を試みる。

 何故、いまさらサイードの『オリエンタリズム』を読むのか。それは〈オリエンタリズム〉の観点から音楽思想史を整理するための第一歩に他ならない。

 〈オリエンタリズム〉という概念は、思想史上において多大な衝撃を残した。哲学史が概して西洋を中心にして語られるのと同じく、音楽思想史においてもまた語られるのは、ほとんど西洋におけるそれである。では、音楽思想史において〈オリエンタリズム〉という概念はどのように有効に作用するのであろうか。この点を考えるためには、さしあたって〈オリエンタリズム〉の概念そのものの正確な把握が必要不可欠である。

 そもそもサイードは音楽思想史においても無視できない思想家の一人である。サイードは音楽評論を数多く書き残しており、またユダヤ人音楽家であるダニエル・バレンホイムと対話を行った。サイードの音楽論が『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』といった彼の他の代表作と無関係に読み解けるなどと思うのは、あまりにも野暮な考えではないだろうか。

序説(一)

 『オリエンタリズム』の「序説 Introduction 」は比較的長い。この「序説」は丁寧に書かれており、三つの節で構成されている。最初の節では、サイードのいう〈オリエント〉や〈オリエンタリズム〉の概念について論じられている。

 "European Western" は「西洋人」か

 まずサイードは〈オリエンタリズム〉が〈オリエント〉と関連するものであることについて述べている。少し長いが以下の論証の文脈に関わるので、パラグラフごと引用する。

Americans will not feel quite the same about the Orient, which for them is much more likely to be associated very differently with the Far East (China and Japan, mainly). Unlike the Americans, the French and the British—less so the Germans, Russians, Spanish, Portuguese, Italians, and Swiss—have had a long tradition of what I shall be calling Orientalism, a way of coming to terms with the Orient that is based on the Orient’s special place in European Western experience. The Orient is not only adjacent to Europe; it is also the place of Europe’s greatest and richest and oldest colonies, the source of its civilizations and languages, its cultural contestant, and one of its deepest and most recurring images of the Other. In addition, the Orient has helped to define Europe (or the West) as its contrasting image, idea, personality, experience. Yet none of this Orient is merely imaginative. The Orient is an integral part of European material civilization and culture. Orientalism expresses and represents that part culturally and even ideologically as a mode of discourse with supporting institutions, vocabulary, scholarship, imagery, doctrines, even colonial bureaucracies and colonial styles. In contrast, the American understanding of the Orient will seem considerably less dense, although our recent Japanese, Korean, and Indochinese adventures ought now to be creating a more sober, more realistic “Oriental” awareness. Moreover, the vastly expanded American political and economic role in the Near East (the Middle East) makes great claims on our understanding of that Orient.

アメリカ人ならば、オリエントについて、これとまったく同じ感じ方はしないであろう。多分に違った連想の仕方で、むしろ極東(主として中国と日本)を連想するのではないだろうか。アメリカ人と違って、フランス人とイギリス人には——また彼らほどでないとしてもドイツ人、ロシア人、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、スイス人にも——、私が本書でオリエンタリズムと呼ぶことになるものの長い伝統がある。それは、オリエントと関係する仕方なのであり、西洋人エスタンとしての経験のなかにオリエントが占める特別の地位にもとづくものであった。オリエントは、ヨーロッパにただ隣接しているというだけではなく、ヨーロッパの植民地のなかでも一番に広大で豊かで古い植民地のあった土地であり、ヨーロッパの文明と言語の淵源であり、ヨーロッパ文化の好敵手であり、またヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役立った。もっともこのオリエントは、いかなる意味でも単なる想像上の存在にとどまるものではない。それは、ヨーロッパの実体的なマテリアル文明・文化の一構成部分をなすものである。すなわちオリエンタリズムは、この内なる構成部分としてのオリエントを、文化的にも、イデオロギー的にもひとつの態様をもった言説ディスクールとして、しかも諸制度、語彙、学識、形象、信条、さらには植民地官僚制と植民地的様式コロニアル・スタイルとに支えられたものとして、表現し、表象する。これとは対照的に、アメリカ人のオリエント認識は、それよりもかなり淡泊な印象を与えるかもしれない。もっとも、日本、朝鮮半島およびインドシナで、アメリカ人が行った近年の軍事的行動のおかげで、いくらかは冷静で現実的な「オリエント」認識が生まれつつあるというべきであろう。そのうえ近東(中東)においてアメリカ合衆国の政治的・経済的役割がはなはだしく拡大した結果、そちらのほうのオリエントをもアメリカ人はもっと理解すべきだということが声高に叫ばれるようになっている。

(Said 2003:1-2、訳18〜19頁、下線引用者)

ここで〈オリエント〉に対するアメリカの人々の感じ方がヨーロッパ諸国の人々とは異なると言われているのは、両者の植民地的経験が異なるからである。つまり、ヨーロッパが植民地とした地域とアメリカが植民地とした地域とが異なっていることで、両者の〈オリエント〉観もまた異なった様相を呈することになるのである。アメリカ人が〈オリエント〉という言葉で「むしろ極東(主として中国と日本)を連想するのではないだろうか」と言われているのはそういう意味である。

 ここで「西洋人エスタン」と(訳者がわざわざルビを振って)訳されている箇所に目を向けると、原文は "that is based on the Orient’s special place in European Western experience" と書かれている。辞書で「西洋」を引いてみると、「ヨーロッパ・アメリカ諸国の称」と書いてある。「アメリカ人と違って Unlike the Americans 」とサイードが断り書きをしているように、ここではアメリカとヨーロッパとを対照した文脈で "European Western experience" が言及されているのであるから、ここは「西人」ではなく「西(の経験)」と訳すべきではないだろうか。

 そう考えると、「ヨーロッパ(つまり西洋)」と換言の意味で訳されている "Europe (or the West)" という箇所もまた「ヨーロッパ(あるいは西洋)」と訳した方が良いとも考えられる。「西洋 West 」が「ヨーロッパ・アメリカ諸国の称」だとしても、アメリカ諸国を抜きにした「ヨーロッパ Europe 」が(重なる部分があるとはいえ)厳密には同じではないからである。あるいは、「西洋 West 」は意味的に「ヨーロッパ Europe 」を包摂するが、その逆ではないからである。

 「ひとつの態様をもった言説として」という訳出もいささか奇妙である。文字通りに読めば「言説の一様態として as a mode of discourse 」である。この箇所も包摂関係が逆に捉えられて訳出されている。

 直前の一文「それは、ヨーロッパの実体的なマテリアル文明・文化の一構成部分をなすものである」の原文は "The Orient is an integral part of European material civilization and culture" である。ここで強調されている "material" は「想像上の imaginative 」との対比において用いられている。 "material" の訳語は「実質的な」でも良かったのではないだろうか。

 ちなみに「一構成部分 an integral part 」の "integral" は、ここでは「構成」よりもむしろ「必須の、不可欠な」というニュアンスかと思われる*1

オリエンタリズム〉の第一の意味:「学術的(アカデミック)」なものとしての〈オリエンタリズム

 サイードによれば、〈オリエンタリズム〉には複数の意味があり、その第一のものは「学術的アカデミック」なものだとされる。

It will be clear to the reader (and will become clearer still throughout the many pages that follow) that by Orientalism I mean several things, all of them, in my opinion, interdependent. The most readily accepted designation for Orientalism is an academic one, and indeed the label still serves in a number of academic institutions. Anyone who teaches, writes about, or researches the Orient—and this applies whether the person is an anthropologist, sociologist, historian, or philologist—either in its specific or its general aspects, is an Orientalist, and what he or she does is Orientalism.

私は、オリエンタリズムという語に複数の意味あいを与え、しかもしれらを相互依存関係のうちに絡みあったものとして考える。このことは読者の目にこれから明らかになってゆくであろう(しかも、読み進むにつれてますます明らかになるであろう)。オリエンタリズム複数の意味あいダゼグネイションのうち、もっとも広く一般に認められているのは、学問に関係するアカデミックなものである。事実、オリエンタリズムというレッテルは、あまたの研究機関のなかで依然として通用している。オリエントの特殊な、または一般的な側面について、教授したり、執筆したり、研究したりする人物は——その人物が人類学者、社会学者、歴史学者、または文献学者のいずれであっても——オリエンタリストなのである。そして、オリエンタリストのなす行為が、オリエンタリズムである。

(Said 2003:2、訳19〜20頁、下線引用者)

原文と対照すると、このパラグラフで二回目の「複数の意味あい」と訳されている原語は "designation" であることになるが、おそらく訳者は前の文の意味をとって意訳したように思われる。 "desigonation" を英和大辞典で引いてみると、その意味は「指示、指定」や「称号、名称」だという。

 また邦訳で「もっとも広く一般に認められているのは」と訳されているのは "The most readily accepted" であるが、「広く一般に」は訳者の補いだろうか。しかし、ここで「オリエンタリズム」という名称が「もっともすすんで受け取られた」のは「学術的アカデミック」なものとしてなのだから、これが専門家以外にまで「広く一般に」広がっているとは到底思われない。意味を補うのなら「広く一般に」ではなくむしろ「狭く専門家の中で」とした方が適切ではなかったか。その受け取られた範囲は、あくまで「人類学者、社会学者、歴史学者、または文献学者」という専門家の中でのことに過ぎないのである。

 したがって、この一文は「オリエンタリズムという名称がもっともすすんで受け取られたのは学術的アカデミックな〔分野における〕それである」とでも訳せるだろうか。またこの場合の "Orientarism" は「東洋学」と訳すことができよう。

 この「学術的アカデミック」な意味でのオリエンタリストの代表者としてサイードが扱うのは、後の章で出てくるシルヴェストル・ド・サシやエルネスト・ルナンのような文献学者たちであろう。

 

オリエンタリズム〉の第二の意味:「存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」としての〈オリエンタリズム

 〈オリエンタリズム〉の第二の意味は、「西洋」と「東洋」の比較対照によって設けられた「存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」である。

Related to this academic tradition, whose fortunes, transmigrations, specializations, and transmissions are in part the subject of this study, is a more general meaning for Orientalism. Orientalism is a style of thought based upon an ontological and epistemological distinction made between “the Orient” and (most of the time) “the Occident.” Thus a very large mass of writers, among whom are poets, novelists, philosophers, political theorists, economists, and imperial administrators, have accepted the basic distinction between East and West as the starting point for elaborate theories, epics, novels, social descriptions, and political accounts concerning the Orient, its people, customs, “mind,” destiny, and so on. This Orientalism can accommodate Aeschylus, say, and Victor Hugo, Dante and Karl Marx. A little later in this introduction I shall deal with the methodological problems one encounters in so broadly construed a “field” as this.

この学問的伝統——その蓄積、移転、専門分化、伝達が本書の主題の一部をなす——にも関係するのだが、オリエンタリズムにはより広いジェネラル意味がある。すなわち、オリエンタリズムは「東洋オリエント」と(しばしば)「西洋オクシデント」とされるものとのあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式なのである。かくて詩人、小説家、哲学者、政治学者、経済学者、帝国官僚を含むおびただしい数の著作家たちが、オリエントとその住民、その風習、その「精神」、その運命等々に関する精緻な理論、叙事詩、小説、社会詩、政治記事を書きしるすさいの原点として、東と西とを分かつこの基底的な区分を受け入れてきた。そしてこの種のオリエンタリズムは、例えばアイスキュロス、さらにヴィクトル・ユゴー、ダンテ、カール・マルクスをまでも取り込むことになる。これほどに広い意味をもつ「分野フィールド」のなかで我々が出会うことになる方法論上の諸問題については、私はこの序説の少し後のほうで論じるつもりである。

(Said 2003:2-3、訳20〜21頁)

先の「アカデミックな」ものとしての〈オリエンタリズム〉が専門家の中でのいわば狭い範囲において通用していたものであったのに対して、ここでは〈オリエンタリズム〉がより「一般的な」人々、すなわち「詩人、小説家、哲学者、政治学者、経済学者、帝国官僚を含むおびただしい数の著作家たち」のうちにいかにして看取されるかについて注意が向けられる。これもまた『オリエンタリズム』の後の章の内容を予告するものである。例えば、カール・マルクスについては第二章「オリエンタリズムの構成と再構成」二「オリエント在住とオリエントに関する学識」の中で取り上げられるであろう。

 サイードのいう「存在論的・認識論的区別 ontological and epistemological distinction 」とは、一体どういうことであろうか。この第二の意味は次のパラグラフでは「想像力に関わる imaginative 」ものだと言われている。おそらくサイードがここで言いたいことは、「西」とか「東」といった区別が、実在する区別ではなく、人間の頭脳の中で作られた「想像上の」区別だということではないだろうか。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:ジーニアス英和大辞典』【integral】の例文に次のようなものがある。 "Television has long since become an integral part of Japanese life." 「テレビはずっと前から日本人の生活になくてはならないものになっている。」