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ルソー『言語起源論』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

第十三章 旋律について

 私たちは絵画や音楽を鑑賞して感動することがあるが、その感動は一体何に起因するのか。ルソーによればその原因は、絵画における「色」や音楽における「音」ではなく、絵画における「デッサン」「模倣」であり、音楽における「旋律」だという。

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絵画がわれわれのうちで引き起こす感情はによるものではないのと同様に、われわれの心に対する音楽の影響力はの仕業ではない。よく釣り合いの取れた美しい色は視覚を喜ばせるが、その快楽は純粋に感覚的なものである。その色に生命や魂を与えるのはデッサンであり、模倣である。われわれの情念を揺り動かすのはその色が表現する情念であり、われわれを感動させるのはその色が表しているものである。関心と感情は色に由来するのではない。感動的な絵画の描線は版画でもわれわれを感動させる。その絵画から描線を取り去ってしまえば、色は何の作用も及ぼさないだろう。

 まさにデッサンが絵画においてしていることを旋律は音楽においてしているのだ。まさに旋律が線や像を描くのであり、和音やおんは色にすぎない。しかし旋律はおんの連続にすぎないと言われるかも知れない。しかしデッサンも色の配置にすぎない。雄弁家は著作を記すのにインクを使う。インクはとても雄弁な液体だということだろうか。

(Rousseau 1781:410-411、増田訳96〜97頁、強調引用者)

諸々の「音」や「色」は「旋律」や「デッサン」を構成する要素である。しかし、「旋律」や「デッサン」は人に感動を与えるが、「音」や「色」のような要素はそれだけでは人に感動を与えない。これは、人間の成分を分析して、窒素・リン酸・カルシウムのような構成要素を集めてきたからといって、それによって人間が出来上がらないのと同様である。「音」や「色」とは異なり、「旋律」や「デッサン」が芸術であるのは、「旋律」や「デッサン」が何かの表現であり「模倣」であって、自然科学ではないからだ。

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つまり絵画は視覚に快いように色を組み合わせる術ではないのと同様に、音楽は耳に快いように音を組み合わせる術ではない。それだけなら、どちらも芸術ではなく自然科学のうちに含まれるだろう。絵画と音楽を芸術の地位にまで高めるのは模倣だけである。ところで絵画を模倣芸術にするのは何だろうか。デッサンである。音楽をもう一つの模倣芸術にするのは何だろうか。旋律である。

(Rousseau 1781:413、増田訳99〜100頁、強調引用者)

ルソーが音楽を絵画に喩えて説明したことは、音楽と絵画が非常に近いものを持っていることを意味しているかもしれない。両者の差異があるとすれば、作品を受け取る際の感覚器官の違いだろう。

 

第十四章 和声について

 ルソーは「旋律」における表現力を次のように高く評価している。

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旋律は声の変化を模倣することによってうめき声、苦痛や喜びの叫び、脅し、うなり声を表現する。情念の音声的記号はすべて旋律の領域に属している。旋律は言語の抑揚や、各言語において心の動きに用いられる言い回しを模倣する。旋律は模倣するだけでなく語り、分節はないが生き生きとしていて熱烈で情熱的なそのことばづかいは音声言語そのものよりも百倍も力強い。音楽的模倣の力はまさにここから生まれるのである。感じやすい心を持つ人たちに対する歌の影響力はまさにここから生まれるのである。

(Rousseau 1781:415、増田訳103頁、強調引用者)

ルソーの考えでは、「旋律」の最大の特徴は「模倣」にある。旋律は「うめき声、苦痛や喜びの叫び、脅し、うなり声」などを表現することができるのである。

 このような表現力豊かな「旋律」とは対照的に、ルソーは和声について次のような否定的評価を下している。

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和声はある体系では〔その影響力に〕協働することができる。それは転調の規則によっておんの連続をつなぎ、抑揚をより正確にし、その正確さの確実なしるしを耳にもたらし、音符に還元できない抑揚を協和し結びついた音程に近づけ固定化することによってである。しかし和声は旋律を束縛することによって旋律から力強さと表現力を奪い、旋律から情熱的な抑揚を消し去りその代わりに和声的な音程を置き、弁舌の調子の数だけ旋法があるはずの歌を二つの旋法だけに従わせ、その体系に収まらない無数の音や音程を消し去り破壊してしまう。つまり和声は歌と音声言語を非常に引き離してしまうので、この二つの言語は闘い妨害し合い、互いにいかなる真実の性格も奪い合い、悲壮な主題において不条理なしに結び合わせることができない。

(Rousseau 1781:415-416、増田訳103〜104頁)

正直、私にはこの箇所を読み解く力がないが、差し当たりラモーの『和声論』と合わせて読解すべき箇所だと考えている。

 ルソーはラモーの『和声論』を若い時によく読み込み、そこから音楽理論を学んだという。しかし、周知の通り、ルソーはラモーの前で演奏した際に不評を買い、ラモーらと上演が決まった際にはプログラムからラモー以外の名前が消されたというエピソードがある。

 

第十五章 われわれの最も強烈な感覚はしばしば精神的な印象によって作用するということ

 ルソーは音が「神経」に与える影響と「心」に与える影響とを区別している。

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それがわれわれの神経に引き起こす振動のみによっておんを考えている限り、音楽の真の原理も、に対する音楽の力についての真の原理も得られることはないだろう。旋律におけるおんは単におんとして作用するのではなく、われわれの情緒や感情の記号として作用する。まさにそのようにしておんはそれが表現していてわれわれがその像をそこに認める心の動きをわれわれのうちにかき立てるのだ。

(Rousseau 1781:417、増田訳106頁、強調引用者)

旋律はわれわれの心に訴えかけるが、しかし、その旋律に込められた「情緒や感情の記号」を読み取るためには、その国民でなければ理解できないところがある。

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各人はなじみ深い抑揚によってのみ感動させられる。各人の神経は精神によって準備させられてはじめてその抑揚を受け入れる。各人が言われることによって動かされるには、各人が話される言語を理解しなければならない。ベルニエのカンタータは、フランス人の音楽家の熱を治したと言われるが、ほかの国の音楽家ならどんな国の人でも熱を出しただろう。

(Rousseau 1781:418、増田訳107頁)

言語がフランス語やイタリア語のように国民ごとに異なるように、音楽もまた国民ごとの文法を持っている。音楽はその国ごとのハビトゥスだと言えるかもしれない。

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