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ヴィーコの「共通感覚(常識)」論

今回はヴィーコの「共通感覚(常識)」論というテーマで書きたいと思います。

目次

 

はじめに

ヴィーコは早熟な独学者として知られており、彼の死後、様々な歴史家に影響を与えたと言われています。

さて、表題にある「共通感覚(常識)」とは何でしょうか。この言葉はアリストテレスの『霊魂論』におけるコイネー・アイステーシスにその起源を求めることができると言われていますが、その後は時代とともに紆余曲折を経て、健全なる判断能力としての常識と見なされたり、共同体的な感覚と見なされたり、五感とは区別される第六の内的感官などとして捉え直されたりしてきました。これが日本語だと「共通感覚」(希:ϰοινὴ αἴσθησις(コイネー アイステーシス)、羅:sensus communis(センスス コムニス)、独:Gemeinsinn)や「常識」(英:common sense、独:gesunder Menschenverstand)などと翻訳されています*1。 

ヴィーコの「共通感覚(常識)」

ヴィーコ『学問の方法』によれば、「共通感覚(常識)」は「知識」や「誤謬」とは異なるものにその起源を持つと述べられています。

「知識が真理から、誤謬が虚偽から生まれるように、真らしいものから共通感覚(常識、sensus communis)は生まれる。確かに、真らしいものは、あたかも真理と虚偽の中間物(media)のようなものである。そうして、ほとんど一般に真理であり、極めて稀にしか虚偽にならない。したがって、青年たちには共通感覚(常識)が最大限教育されるべきであるから、我々の〈クリティカ〉によってそれが彼らにおいて窒息させられないように配慮されるべきである。」(ヴィーコ [1987]、26〜27頁)

(Vico [1709], p.20-21.)

ここで、「知識」と「誤謬」と「共通感覚(常識)」という三つのものが取り上げられていますね。これを整理すると、

  • 真理から知識は生まれる(真理→知識)。
  • 真らしいものから共通感覚(常識)は生まれる(真らしいもの→共通感覚(常識))。
  • 虚偽から誤謬は生まれる(虚偽→誤謬)。

となります。上のように示すと「真らしいものは、あたかも真理虚偽の中間物のようなものである」ということが視覚的に捉えやすいかと思います。

上の引用で〈クリティカ〉という言葉が出てきたので、上村先生の説明を引用しておきます。

ヴィーコにおいては、「クリティカ」とは、広い意味では、真偽の判断に関わる術を教える科目のことを言う。そして、それは、論拠の在り場所の発見に関わる術を教える科目として古来弁論家の要請にとって必須の科目と考えられてきた「トピカ」と対をなして用いられる。(上村 [2007]、61-62頁)

さらに上村によれば、ヴィーコは、アルノー&ニコル『ポール=ロワイヤルの論理学』に代表されるデカルト主義的教育実践においては、もっぱらクリティカのみが重視されており、トピカが軽視されている点を鑑みて、ヴィーコは次のように述べたとされます、「トピカは教授においてクリティカに先立たねばならない」と。

先の引用の中でヴィーコは〈クリティカ〉という批判術によって「共通感覚(常識)」が潰されることを懸念しています。というのも、「真らしいものは、あたかも真理と虚偽の中間物のようなものである。そうして、ほとんど一般に真理であり、極めて稀にしか虚偽にならない」のであるから、「真らしいもの」は、その蓋然性の高さゆえに実用的なのであって、したがって「真らしいものから生まれる共通感覚(常識)」は決して退けられるべきではないからです。

もちろんどんなときも「真理」だけを扱うことができればそれに越したことはないのですが、しかし例えば歴史学におけるように、決して「真理」にはたどり着けず「真らしいもの」で満足するしかないような領野というものが存在するのであって、その場合には「共通感覚(常識)」を磨いていくことが重要視されるのです。

文献

*1:「共通感覚」や「常識」についての考察は、中村 [2000]をみよ。なお中村によれば、ヴィーコは、ベーコンのトポス論を取り入れ、また「レトリックのなかでもとくに〈トポス論〉を重視し、その考え方の中心に据え、そのことによってキケロルネサンス人文主義につながるとともに、デカルトと真向から対立する立場に立ったのであった」(中村 [2007]、177頁)とされる。