まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

不満について

今回は、不満について書きたいと思います。

目次

 

はじめに

最近あるサイトで、内容が薄くなってもブログは毎日更新した方がいいという趣旨の内容を読んだので、しばらく毎日更新してみようと思います。

とはいえ、研究ノートとなると、さすがに毎日更新するのはかなり難しいです。文献も常に持ち歩くわけにいかないので、先行研究もなかなか参照しづらい。

じゃあどうすれば良いのかというと、文献にこだわらずに自らの思考をそのまま書けば良いという結論に至りました。

 

不満と欲求

そこで今回選んだテーマは「不満」です。なぜ「不満」について考えるのかというと、私自身が不満な状態だからです。不満とは、欲求が満たされていないことだと言えます。また不満と欲求は非常に似ていますが、似て非なるものです。不満とは、欲求が満たされない時期が一定程度持続し、我慢し難い状態になった際に自覚されるものです。したがって我慢を継続することができるような理由さえあれば、不満が顕在化することを抑制することができると考えられます。

「不満について」というタイトルのものがあるのかは知りませんが、哲学史上で参考になりそうな考え方としては、エピクロスの「アタラクシア(心の平安)」が想起されます。エピクロスの「アタラクシア」は、それ自体で満ち足りた状態のことです。

我々のいわゆる不満というものは、主に社会生活を営む中で生まれるように思います。社会生活において営まれる経済活動は、各々が商品を社会的に生産するという側面と、これによって各々の欲求を満たすという側面を持っています。これを言い換えると、欲求の不満足を満たすものが経済活動だということになります。

しかし、人々の持つ多様な欲求は、予め決まっているわけではなく、新たに作り出されていくものです。「新商品」の登場によって、人々の新しい欲求が創出され刺激されます。これは通常「需要の創出」などと呼ばれていますが、そのような呼び方は重要ではありません。むしろ人々の欲求が新しく作り出されるという事実に目を向けると、ここに不満をもたらす原因の一つが認められます。言ってみれば、不満は外部によって持ち込まれるのです。

 

不満の必然性

外部による不満の持ち込みは極めて避けがたく、ある意味で必然的です。というのも、我々が社会生活を営む以上は、広告という形をとって外部から持ち込まれる不満の流入を、予め阻止することはできないからです。街に出れば看板広告や電車内の広告が目につきます。また家の中に居たところで広告はテレビやWeb経由で常に入ってきます。Web広告については、目に入っているにも関わらずほとんど存在しないかのようにスルーする術を身につけたとしても、最近では動画や画像といった巧妙な形で、視覚や聴覚を刺激して、人がつい目を留めてしまうものが増えています。もちろん人間が何かに興味関心を持ち、学習し、自身の能力を具体的に強化していくことは、人間の成長において欠かせないプロセスです。しかしながら、広告による興味関心の創出は、必ずしも強化学習に繋がるものではなく、消費への意欲と欲求を創出するに過ぎないものも多いかもしれないのです。

 

不満の不可逆性

新たな欲求によってもたらされる不満の顕在化は、そこにある種の欲求が存在するということの発見です。例えば、会社の中で出世したいとか、新しいゲームが欲しいとか、意中の相手を自分のものにしたいとか、服でも家でも自分なりにコーディネートしたいとか、このようないかなる欲求であれ、一度不満を感じたということは、その対象における満足の度合いにつながる質の段階を理解し、認識したということです。しかも、その欲求を一度でも認識してしまったら、記憶喪失にでもならない限りは後戻りできないような性質のものです。この点で、不満の創出は、不可逆的な流れであると言えそうです。

不満についてはまだ書き足りず不満ですが、ここで一旦筆を置くことにします。