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いわゆる「自由意志」論(1)

目次

はじめに

 今回はいわゆる「自由意志」論について書きたいと思います。前回の記事でヘーゲルの意志論についてちょろっと書きましたが、「自由意志」の概念史についてもう少し遡ってみようと思います。

 ちなみに余談ですが、先日トーマス・ピンクの『自由意志』(岩波書店)を買いました。この本は分析哲学的に叙述が進められていくので、内容を辿っていくことができ、非常に好感を持てます。第四章以降ではホッブズへの言及が非常に多くなっていますが、ピンクのホッブズ解釈も面白いと思います。

ピンクは「自由意志」について次のように述べています。

「自由意志の問題の長い歴史は、その名前のうちに表れている。自由意志という言葉は、日常生活の中で、自分の行為に対するコントロール、つまり、行為が私たち次第だということについて話す場合に、普段はあまり用いられない言葉である。それにもかかわらず、この二千年以上もの間、自身の行為を私たちが本当にコントロールできるかどうかについての問題を議論するために、西洋の哲学者たちは、まさにこうした言葉を使用してきたのだ。彼らが自由意志という言葉を選んだということは、私たちが行為をコントロールできるかどうかがなぜ重要なのか、そして、行為する仕方をコントロールすることが何を意味するかについて教えてくれる。」(ピンク [2017]、3頁)

「自由意志」は哲学史上の重大な探究テーマでした。ただしピンクは「自由意志の問題の長い歴史」それ自体にはほとんど言及しておらず、極めて近代的な意味での「自由意志」について論じています。

近代よりも前の「自由意志」を扱っているものとしては、アーレント『精神の生活』「第二部 意志論」が挙げられます。

 

いわゆる「自由意志」論

「自由意志」*1とは何か。これに答えるのは容易ではないです。とはいえ、「自由意志」を論ずるにあたって、今後も常に参照されるであろう文献があります。それはアウグスティヌスのいわゆる『自由意志論』(De libero arbitrio)という著作です*2。ここで「いわゆる」と付けたのは、これが日本語で『自由意志論』と訳されているからですが、実際には「意志の自由な選択」(Liberum arbitrium voluntatis)すなわち「選択意志」として理解する方が適切かもしれません。この本はエヴォディウスとアウグスティヌスの対話篇という形式をとっており、対話であるがゆえに、その内容は弁証法的に展開されます。

アーレント『精神の生活』の中には「アウグスティヌス意志の最初の哲学者」(アーレント [1994]、102頁)という項目があるのですが、注意しなければならないのは『精神の生活』が草稿であり、この項目がアーレントではなく、便宜的に編者によって付加されたにすぎないかもしれないという点です。アーレントが、アリストテレス使徒パウロエピクテトスらの意志論を検討していることからも分かる通り、アウグスティヌスを「意志の最初の哲学」と呼ぶことには文献学的に丹念な裏付けが必要だと思うのです。

少なくともアーレントアリストテレスのプロアイレシス(proairesis)を選択能力として読み取ったようですが、これを直ちに、自己決定するものとしての自由意志と結びつけることまでしなかった点で、非常に注意深いです。

ラテン語では、アリストテレスの選択能力は、リベルム・アルビトリウム(liberum arbitrium)である。意志に関する中世の議論においてリベルム・アルビトリウムにでくわす場合には、我々は、何か新しいことを始める自発的な力や、それ自身の本性によって規定され自らの法則に従うような自律的な能力を扱うわけではない。」(アーレント [1994]、74頁)

 (続く)

 

文献

*1:ドイツ語テクスト上の「自由意志」(liberum arbitrium)の変遷については、丑田 [1992]を参照。丑田によれば、「ドイツ語で「自由意志」の概念を本格的に考察したのは、ノートカー(ca. 950-1022)が最初である」(丑田 [1992]、82頁)が、ノートカー自身はまさにアウグスティヌス詩篇注解に基づいて、「アウグスティヌス的な人間の(自由)意志と恩寵との関係を表す考え」(同前、87頁)を述べたとされる。

*2:この著作についてのアウグスティヌス自身のコメントは以下の通り。「まだローマでグズグズしていた時、私たちは討論によって、悪がどこから来るのか探究しようと望んだ。この問題について私たちが髪の権威に服して信じている事柄を、私たちの理解するところへも、神助のもと私たちの論証しうる限りにおいて、かなうことなら理性による熟慮と論究とが至らしめるようにと、私たちは討論した。そして理性によって入念に議論して、悪は正に意志の自由決定力(liberum arbitrium voluntatis)からだけ生じるということが私たちの間で確定したゆえ、その討論の生み出した三巻はDe libero arbitrioと呼ばれている。」(アウグスティヌス『再考録』より、訳は松﨑 [1991]、18頁)。