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通俗の弁証法 あるいはカント・ドイツ通俗哲学・西周

目次

 

はじめに

小谷英生さんが博論出版に向けて準備をしているようだ。

 小谷さんはカントの専門家だが、ドイツ通俗哲学についてものすごくよく調べている。小谷さんの博論が出版されれば、ドイツ通俗哲学の必須参照文献になるはずだし、ドイツ通俗哲学が明らかにされることによって、ライプニッツ=ヴォルフ学派の講壇哲学を自覚的に継承したカントの批判哲学の独自性がよりいっそう際立って見えるようになるだろう。この辺りに小谷さんの博論出版の意義があると個人的には理解している。

出版タイトル案を一つ挙げるならば、『ドイツ通俗哲学の思想圏ーカント批判哲学の黎明期ー』とかどうでしょう。コモンセンスをタイトルに入れるセンスが、僕にはない。

 

ドイツ通俗哲学 ガルヴェとカント

さて、今回はドイツ通俗哲学についてざっと調べてみた(30分ぐらいで)。

まず「通俗的」という言葉について。ガルヴェは「通俗的」について次のように述べている。

「私は通俗的という言葉を二重の意味で受け取る。通俗的に書かれた本とは、学者のみならず広く大衆にとって理解しやすく大衆の気にいる本である、あるいは民衆の低い層向けに書かれその理解力に適した本である。」ガルヴェ『論議の通俗性について』(渡辺 [1976]、446頁)。

つまり、通俗化には、内容のレベルを落とさずにわかりやすくしたものと、内容のレベルを落としてわかりやすくしたもの、という二重の意味がある。このようにガルヴェは考えた。したがって、ドイツ通俗哲学とは一種の啓蒙活動といえるかもしれない。ある事柄が通俗化されることで、広く大衆が理解できるようになれば、それはそれで素晴らしいことである。

啓蒙とはやや異なるが、翻訳にはある種の通俗化の精神が必要だといえる。ガルヴェは、アダム・スミス国富論』ドイツ語訳の最初の訳者であり、またファーガソンの著作を翻訳した。ガルヴェがかなり難しい外国の本をドイツ語に翻訳し民衆が読めるようにした功績は大きい。この意味で、ガルヴェはスコットランド哲学をドイツの民衆に向けて通俗化したと言える。

ちなみに、私見によれば、通俗化は、ある程度一般化すると逆転現象が起こる。民衆がわかりにくいものを受け入れず、わかりやすさを求めるようになるのだ。これすなわち通俗の弁証法Dialektik der Popularisierungである*1。健全な理性が、いつの間にか民衆の感性の奴隷となる。学校の教師も同じかもしれない。わかりにくい教師は糾弾され、わかりやすい教師が重宝される。最近の日本の出版物を見ると「これでわかる〜〜」とか、とても「通俗的な」ものが多いように感じられる。テレビ番組の「池上彰の〜〜」も通俗的だ。 日本の教養番組とはいわば通俗番組なのだ。

カントによると、形而上学という学の進歩を考えると話は別である。カントは「通俗的な」やり方に限界を感じざるを得なくなり、その結果、カントが『純粋理性批判』において採用したのは「講壇的な」やり方だったという。

「批判は学としての基礎的形而上学を促進するために予め必然的になされるものであり、この形而上学は必然的に独断的に、もっとも厳密な要求にしたがえば体系的に、したがって講壇的に schulgerecht通俗的にではなく)遂行されねばならない。」カント『純粋理性批判』第二版序文(小谷 [2015]、10頁)。

ドイツ通俗哲学の存在を現代の我々に伝えているのは、ドイツ通俗哲学者の著作それ自体というよりも、むしろカントの記述によるものである。カントの批判哲学は哲学史に名を残したが、ドイツ通俗哲学はほとんど忘れ去られた。しかし、講壇的に遂行されたカントの批判哲学は、当時はほとんど理解されなかった。 

 

西周の通俗性

ところで、通俗哲学を西周の話に引きつけると、西は日本の通俗哲学者だといえるかもしれない。例えば、西の講義録である「百学連環」のなかで、西は「自在(liberty)」を説明する際に、魚が自由に泳ぎ回る例を用いて、通俗的に説明している*2

「西洋も古昔は皆演繹の學なりしか、近來總て歸納の法と一定せり。今物に就て眞理の一二を論せんには Politics 政事學なるあり。其中一ツの*3眞理は liberty 卽ち自在と譯する字にして、自由自在は動物のみならす、草木に至るまて皆欲する所なり。譬えは茲に魚あり、之を一ツの小なる溝に育ふ。然るに今其溝と他の川河と相通せしむるときは、魚尚ホ其小なる溝に在ることを欲せすして必す他の廣き川に逃れ出るなり。又草木の枝の既に延んとする所に障りあるときは、必す其障りなるものを避けて他に延ひ出るなり。」「百學連環」第39段落第16文~21文、下線引用者(山本 [2016]、292頁)。*4

西洋の言葉を説明するにはある程度の通俗化はやむなし、ということだったのかもしれない。しかしながら、西による魚が泳ぐ例を注意深く読んでみると、「障り」という、「自由」にとって重要なキーワードが浮かんでくる。実は「障り」というのは政治哲学者ホッブズが「自由(liberty)」を説明する際に用いたキーワードなのである。

「自由(liberty)とは、このことばの固有の意味によれば、外的障碍が存在しないこと(absence of external impediments)だと理解される。」(ホッブズ [1992]、216頁)。

西は「自由」を説明する際に泳ぐ魚というわかりやすいイメージに訴えてはいるが、魚が「障り(impediment)」を避けて泳ぐという説明は、「自由(liberty)」の本義に照らしても適切なのである。 

 

文献

*1:すいません、こんな言葉ありませんw。

*2:西の通俗的な説明は「演繹を猫とネズミに譬える」(山本 [2016]、276頁)ところにも見える。

*3:原文ママ。「無二の」ではないか?

*4:この部分はウェブでも読める。