まだ先行研究で消耗してるの?

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大学とはメディアなのか

 前回の記事で大学についてちょろっと書いたので、久しぶりに吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、2011年)を読み直してみました。大学の歴史についてとてもコンパクトにまとまっていて、とても820円で買える内容とは思えないほど素晴らしいです。

 僕がこの本を読んで大学について再度学んだことは多いです。しかしながら、「大学とは、メディアである」という吉見氏の結論だけは、どうにも解せないのです。

「大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。その媒介の基本原理は「自由」にあり、だからこそ近代以降、同じく「自由」を志向するメディアたる出版と、厭が応でも大学は複雑な対抗的連携で結ばれてきた。中世には都市がメディアとしての大学の基盤であり、近世になると出版が大学の外で発達し、国民国家の時代に両者は統合された。そして今、出版の銀河系からネットの銀河系への移行が急激に進むなか、メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある。」(吉見 [2011]、258頁)。

メディアとは媒介のことです。大学が「人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する」がゆえに、大学とはメディアであるというわけです。

 言い得て妙ですが、個人的には、大学とメディアを一旦区別して、(良くも悪くも)大学はメディアと一蓮托生なのだと言った方が良さそうな気がします。日本の大学は岩波書店というメディアを支え、また支えられてきました。中央公論や世界といった論壇メディアもまた然りです。

 もし吉見氏の述べるように図書館や劇場、広場といった場所や空間がメディアであるということは、かつて近代市民社会の世論を形成する社交場としての役割を果たしたコーヒー・ハウスやカフェはメディアであったと言えそうです。このような主張は比喩的で興味深いのですが、しかしメディアの概念がやや広がりすぎているように思います。なにせ「人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する」というだけなら、どんな場所でもメディアになり得ますから。町の商店街でも、井戸端会議でも、出会い系チャットでもメディアになり得ます。なので、試しにこう考えてみましょう。メディアを支えるのはテクノロジーであると。

へーリッシュ『メディアの歴史』(法政大学出版局、2017年)という本があります。

この本の目次を参考にすると、例えば「ノイズ、声と像の生成、文字の発明、活版印刷、新聞雑誌・郵便、写真、録音、映画、ラジオ、テレビ」などがメディアの歴史として取り上げられています。活版印刷や、新聞雑誌、写真、録音、映画、ラジオ、テレビは、何らかの知識・情報を媒介するテクノロジーに支えられています。

 もし吉見氏の述べる通り大学がメディアなのだとすれば、大学というメディアの中で、教員と学生が文字や印刷物、写真、映像音声といったメディアを通じて知を媒介しているのだということになります。そうすると、大学という大きなメディアの中に、個別のメディアが存在するという入れ子構造になります。この入れ子構造こそが、何だか落ち着きが悪く、僕が腑に落ちない理由です。なので、個人的にはメディアという語をもう少し限定して使いたいです。メディアとは媒体ですが、それは何らかのテクノロジーに支えられており、道具のようなものだと思います。

 コミュニケーションあるところにメディアあり。この「はてなブログ」もメディアですし、Mediumもメディアですし、noteもメディアです。メッセージや写真を発信し、見知らぬ人と人とを媒介するTwitterFacebookのようなSNSは、現代の代表的なメディアです。Youtubeのように大学の講義をコンテンツとしてネットで共有できるプラットフォームもまたメディアだと言えます。これらが全てメディアなのは、そもそもインターネットが本質的にメディアだからです。スマートフォンの普及とそのモバイルデータ通信の利用によって、今、メディアはとても広がっているのです。現代とはメディアが遍く存在する時代であり、陳腐な言葉で言えばユビキタスの時代です。

 このような状況下で、「大学とは、メディアである」という吉見氏の結論は、大学というものを、大学の固有性を、大学の種差を説明していると言えるでしょうか。

 ここであえて述べるならば、僕にとって、大学とは教育のサークル*1・コミュニティ*2であり、知の制度的空間です*3

 文字や印刷物、映像などのメディアを媒介として伝達されるのは、何らかの情報です。大学においては、教師の所有物である知の情報、知の技法が、そのようなメディアを通じて人々に受け継がれます。これは教師の知的財産を譲渡したと言えます。教科書や書籍は、教師の知的財産を外化したものです。ただしデジタル化とインターネットの普及によって、この点での独自性は薄れています。

 他方で、近年、大学の危機が叫ばれているのは、大学に市場経済システムが導入されたからです。大学は研究によって、知の遺産を拡大再生産しなければなりません*4。しかし、知の遺産の拡大再生産は、時とともにその生産性を減らしていきます(逓減の法則)。生産性の低い分野に見切りがつけられるようになると、その分野によっては知の遺産の単純再生産さえもままらなくなって来るでしょう。

 先に述べた通り、大学がメディアと一蓮托生であり、現在最も普及的なメディアがインターネットになりつつある以上は、大学はインターネットというメディアを媒介として生き残っていくことになるかもしれません。 

文献

*1:古典ギリシアのエンキュクリオス・パイデイアを念頭に置いている。

*2:大学がコミュニティであるがゆえに、移動が可能である。中世イタリアの大学(教師と学生のウニベルシタス)は自治都市を移動できた。

*3:ちなみに綾井によれば、これまでに「メディアとしての大学(吉見氏)」「知的組織体としての大学(松浦氏)」「古典的学問観の担い手としての大学(金森氏)」という3つの大学像が示されてきた(綾井 [2013]、190頁)。

*4:大学が研究中心という考え方はいわゆる「フンボルト理念」あるいは「ベルリン・モデル」によるものだが、最近ではフライブルク大学パレチェク教授によってその神話性が指摘されているようだ。詳しくは、潮木 [2007]をみよ。「神話」とはいえ、「フンボルト理念」が後にアメリカや日本の大学に対して影響を与え続けてきたことは疑いようがない。