まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

大学の図書館は重要な存在

Twitterで以下のエントリーが流れてきました。

bonotake.hatenablog.com

この記事をきっかけに、あらためて冨山和彦さんの提言を読んで見ました。

冨山氏が大学をG型(グローバル型)とL型(ローカル型)に分けよと提言したのが2014年です。L型大学とは、要するに大学を専門学校か職業訓練校にしてしまえという提言として私は受け取りました*1

上のリンク先でbonotakeさんは冨山氏が提唱する「職能教育のレベルが低すぎる」と述べています。冨山氏の提唱する「実践力」ある教育例として挙げられているのは「弥生会計ソフトの使い方」(その前に大原簿記学校かTACに行け!)「道路交通法や大型二種免許の取得」(大学ではなく自動車学校に通え!)「工作機械の使い方」(それは工場で教えてもらえ!)などです。私も「こんなの本人を現場に3ヶ月もぶち込んどけば(よほど筋の悪い奴じゃない限り)すぐ覚えるんじゃないか」と思うような内容でした。わざわざ大学でやることですらないです。それだったらピーター・ティールが推奨するように大学を辞めることを応援する方がまだ理にかなっています。

また個人的には、G型とL型という二分法がもはや陳腐化した言説と化しているように思います。冨山氏のいう稼ぐ力が重要なのは理解しますが、G型とL型に分けることが、稼ぐ力を養うための適切な解だとは思えません。東京大学を中心とした国立大学をG型、他の大学をL型にするという発想は、結局のところ、既存の大学ヒエラルキーの観念を無自覚のうちに引き継いでしまっており、大学改革にすら値しない言説だと思います。どうせなら地域空間で区別するのではなく、職能的にG型(ジェネラル型)とP型(プロフェッショナル型)で区別する方がすっきりします。

 

ところで、私は最近、西周について調べています。西周の文献は、そのあたりの本屋には基本的に売っていません。大久保利謙編『西周全集』(全四巻揃い)は古書店で買うと10万円します(「日本の古本屋」調べ)。書籍を買うのに10万円は、誰でも手軽に買える値段ではないですよね。

しかし、大学図書館に行けば、西周全集が読めるのです。他の文献もありますし、デジタル化されていない紀要論文も読めます。もちろん学費は10万円の書籍を買う以上にもっとかかりますが、大学図書館でしかアクセスできない知の集積というものがあります。本当は全てデジタルデータ化されていれば良いのですが、今のところそうはなっていません。

なので、西周について調べる中で、私は大学図書館の重要性を思わず意識せざるを得なくなったのです。もちろん西周について研究したところで、稼ぐ力はつかないかもしれませんけれども、大学の存在意義というのは、冨山氏の考えるような稼ぐ力をつける場というところにあるのではなくて、むしろ冨山氏がL型大学から排除しようとしている学知を保護するところにあるのではないかと思うのです。

ちなみに英語のScienceやドイツ語のWissenschaftは日本語で「科学」や「学問」と訳されますが、これらの原義は「知ること(羅: scientia、独: Wissen)」にあるわけです。「科学」や「学問」が「知ること」であるならば、大学とは「知ること」を行う人々の「団体(universitas)」であるというのが本義です。

*1:大学がサイエンス(学)とアート(術)の場であるとするならば、L型大学はサイエンスを削ぎ落としてアートだけを残すということになる。ちなみに冨山氏は福沢諭吉を援用して、「L型は、福澤諭吉の「学問のすすめ」に立ち戻るべきだ。諭吉が簿記・会計を学べと書いていることを忘れていないか。実学こそ、教養だ。大学人はリベラルアーツの背景も意味も理解していない。」と述べている。実際には「実学」も「教養」も時代と地域によってその意味が変化している。例えば、「教養」には、労働を通じて形成されるドイツ的な意味での「教養(Bildung)」と、日本の旧制高校教養主義における読書を通じた人格形成としての「教養」などがあると思われるが、もし冨山氏のいうように「実学こそ、教養だ」ということになれば、L型大学はドイツ的な「教養」(これは、ヘーゲルが考えたような、労働を通じての陶冶である)を目指していると言えるかもしれない。しかし、少なくとも「リベラルアーツの背景も意味も理解」するために「立ち戻るべき」なのは、福沢諭吉という日本の「民」間の、すなわち私塾の先生が書いた『学問のすすめ』ではなく、ヨーロッパの伝統における自由七科(これは文法学・修辞学・論理学の3科と算術・幾何・天文学・音楽の4科から成る)であろう。