まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

自分のパーソナリティー

 有名な『孫子の兵法』に「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」(『孫子謀攻篇』)とあります。また西洋哲学の伝統が「汝自身を知れ」から始まったように、「自分自身を知る」ことの重要性は古くから認識されてきました。

 しかし、正直なところ、自分のパーソナリティーについては、僕自身しっかり把握できていません。過去にリクルートの性格診断のようなものをやったことがありますが、確かその時は「あなたは研究職向き」みたいに出てきました。そういう診断はやってみた時は「ふーん、そうなのか」と思うのですが、後に残るものが感じられません。

 どちらかといえば、自分のパーソナリティー(あるいは自分の行動特性)は、自分で発見していくのがベストな気がします。というのも、自分でも気づかなかった自分(潜在的に存在するが認識されていない状態、これをヘーゲル哲学ではan sichと言います)を発見し認識できた時(このような自覚的な状態を、ヘーゲル哲学ではfür sichといいます)は、ちょっとだけワクワクするからです。

 このブログを書いてみて、自分の能力的にそこまで深く考えることができないという自覚はあるものの、自分は物事を考えるのが好きなのではないかと思いました。あとは書くことも好きですね。本(を読むこと)も好きです。このようなパーソナリティーをなんと形容したら良いでしょうか。

 おそらく読書家で、沈思黙考の物書きを、人は「内向的」と呼ぶのではないでしょうか。しかし、読書への欲望は必ずしも自分に関心があるわけではなく、他者への関心から沸き起こるものです。沈思黙考も、思索の対象は自分自身ではなく、およそ自分にとって外的なものに向かっているわけです。このようなパーソナリティーは「社交的」ではないにせよ、(興味関心が外に向かっているという意味で)「外向的」と呼べなくもなさそうです。したがって、単純に「外向的/内向的」という二分法に当てはめることは、実際のところは、かなり難しいと思われます。

 では、「外向的/内向的」がダメなら「社交的/非社交的」と呼べばいいのかというと、それもまた難しい問題です。人に関わりを持とうとする「外向的」な人が必ずしも「社交的」ではない(むしろ場合によっては「非常識」ですらある)からです。

 以上、特にまとまっていないのですが、人間のパーソナリティーには様々な要素が複合的に絡み合っているため、安易な二分法や単純化は避けた方が良さそうです。