まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

『音楽思想史』への取り組み(2)

目次

(以下のつづきです)

sakiya1989.hatenablog.com

 

『音楽思想史』に関する先行研究

ルソー関連文献

板野和彦「ルソーの音楽教育観に関する研究」(明星大学教育学研究紀要第18号、2003年)

まあルソーの教育論ってそんな感じだよね、という…。

小田部胤久「ルソーとスミス——芸術の自然模倣説から形式主義的芸術観はいかにして生まれたのか——」(東京大学美学芸術学研究室『美学藝術学研究』第15号、1996年)

美学研究の泰斗、小田部胤久先生独自の切り口で描かれる、ジャン=ジャック・ルソーとアダム・スミスの音楽論の比較思想史的研究です。

小穴晶子「ルソーの音楽模倣論の意味について」(東京大学文学部美学芸術学研究室紀要『研究』第1号、1982年)

 

増田真「ルソーにおける言語の起源と人間の本性——『人間不平等起源論』と『言語起源論』——」(東京大学仏語仏文学研究会「仏語仏文学研究」第7号、1991年)

『人間不平等起源論』から『言語起源論』にかけてルソーの思想は深化していき、そこには「人間」把握における根本的な転回があったのです。

増田真「説得と誓約:『エミール』における言語の問題」(東京大学仏語仏文学研究会「仏語仏文学研究」第49号、2016年)

増田先生による『エミール』のうちにルソーの言語論を読み取ろうとする試みです。

(以下につづく)

sakiya1989.hatenablog.com

ルソー『言語起源論』覚書(1)

目次

はじめに

 『音楽思想史』に取り掛かるために,本稿ではルソー『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』(増田真訳,岩波文庫,2016年)を読む.

ルソーの『言語起源論』は死後出版であった.「訳者解説」によれば,この著作が書かれた時期は1750年代後半から1762年前半にかけてであったという(138頁).

ルソー『言語起源論』(1781年)

(死後出版されたルソー『言語起源論』1781年)

第一章 われわれの考えを伝えるためのさまざまな方法について

 章タイトルにある「われわれ nos」とは,一体何を意味しているのだろうか.それは人間一般のことを指しているのか.そもそもこの章タイトルはルソー自身がつけたものなのだろうか,それとも編集者がつけたものだろうか.この点については本来であれば手稿の写真を確認しなければならない.『グラマトロジーについて』(De la grammatologie, 1967)の中で本書を取り扱ったジャック・デリダJacques Derrida, 1930-2004)は,どうやらルソーのこの手稿の写真を持っていたようである.

derridas-margins.princeton.edu

話し言葉パロール言語ランガージュ

 ことばを話すことパロールによって,人間はほかの動物から区別される.言語ランガージュは諸国民を互いに区別する.ある人の出身地は,その人がことばを発してからでないとわからない.慣用と必要性によって,各人は自分の国の言語ランガージュをおぼえる.しかしその言語ランガージュがその国のものであり,ほかの国のものではないのはなぜなのか.それについて語るためには,地域に由来し,風俗にさえ先行する何らかの理由にまでさかのぼらなければならない.ことばパロールは最初の社会制度なので,その形態は自然の原因にのみ由来する.

(Rousseau1781: 357,増田訳11頁)

最初の一行目を文字通りに解釈するならば,「ことばを話すことパロールは人間を諸動物から区別し,言語ランガージュは諸国民を互いに区別する」とルソーは述べている.「言語ランガージュ」は,例えば英語やフランス語,中国語などのように,「国民 nation」という単位においてその民族が持っているものである.

 ここで「話し言葉パロール」と「言語ランガージュ」を単純に混同してはならない.このパラグラフでは,最初と最後のセンテンスでは「話し言葉パロール」について語られ,その中間の諸センテンスでは「言語ランガージュ」について語られている.「話し言葉パロール」と「言語ランガージュ」とでは,それぞれ区別する対象が異なる.「話し言葉パロール」があらゆる動物の中での人間の独自性(種差)を示しているのに対して,「言語ランガージュ」には,人間がその生まれ育った地域性や国民性が反映されている.

 

 まず第一章では、タイトルにある通り「われわれの考えを伝えるためのさまざまな方法」が考察される。ここから言語とは考えを伝えるための手段であるということがわかる。しかしながら、興味深いことに、『言語起源論』の最終章である第二十章「言語と政体の関係」では、近代人が言語によってはその内容を上手く伝えることができない様が描かれている。つまり、『言語起源論』は、いかにして考えを伝えるのかの考察から始まるにもかかわらず、いかに考えが伝わらないかという考察で終わるという構成になっているのである。

 われわれが他者の感覚に影響を与えうる一般的な方法は二つだけ、つまり動作だけである。動作の作用は触覚を通じて直接的なものとなるか、そうでなければ身振りを通じて間接的なものとなる。前者〔動作の作用〕は腕の長さが限界となっているので遠くに伝えられないが、後者〔身振りの作用〕は視線と同じくらい遠くに達する。そのように、散らばった人々の間での言語の受動的な器官としては視覚聴覚しか残らない。

(Rousseau1781: 358, 訳12頁, 下線引用者)

このパラグラフを表にまとめるとこんな感じだろうか。

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ルソーは先の引用文で「われわれが他者の感覚に影響を与えうる一般的な方法は二つだけ」だと述べているが、そもそも章タイトルは「さまざまな方法について(divers moyens)」となっていたので、考察されるのが「二つだけ」では少ない。上の表で示したように、訴求される感覚別にみると、人間のコミュニケーション方法は大きく分けて三つ(「触覚」に向けてなのか、「視覚」に向けてなのか、「聴覚」に向けてなのか)である。

 ルソーはこの第一章で「動作」を通じての言語コミュニケーションについて考察した上で、以降の章では「声」を通じての言語コミュニケーションの考察に入っていく。

 

第二章 ことばの最初の発明は欲求に由来するのではなく、情念に由来するということ

 第二章の冒頭でルソーは「それ故、欲求が最初の身振りを語らせ、情念が最初の声を引き出した、と考えるべきである」(訳23頁)と述べている。これはほとんど「言語の起源とは何か」という問いに対する答えであるように思われる。第一章で見たように、「われわれが他者の感覚に影響を与えうる一般的な方法は二つだけ、つまり動作と声だけである」(訳12頁)とされていた。この区別に従うと、「動作」としてのことば(ボディランゲージ)の起源は「欲求」であり、「声」(パロール)としてのことばの起源は「情念」だということになる。

われわれに知られている最も古い言語であるオリエントの諸言語の精髄は、その形成において想像される学術的な歩みとは相いれない。それらの言語は、方法的で理論的なものが何もない。その諸言語は、生き生きとしていて比喩に富んでいる。最初の人間の言語を幾何学者の言語のようなものとする人がいるが、詩人の言語だったことがわかる。

(訳23頁)

ここで「オリエントの諸言語」と呼ばれているものが具体的に何を指しているのか、私にはよく分からない*1。とはいえ、その「オリエントの諸言語」は「最も古い言語である」とされる。現代の私たちが言語を新たに学ぼうとするとき、基本的には単語と文法によって学ぶであろう。しかし、その最古の言語は「方法的で理論的なものが何もない」。つまりそこには文法と呼ばれるような言語の理論がないという。最初の言語は「詩人の言語」であり「比喩に富んでいる」。この点については、次の第三章「最初の言語は比喩的なものだったにちがいないということ」で展開されることになる。

 そこで「欲求」と「情念」がもたらす効果が考察される。「欲求」とは「飢えや渇き」などの生きるために必要なものであり、「情念」とは「愛、憎しみ、憐憫の情、怒り」(訳24頁)などの感情のことである。「欲求」は人々を遠ざけるが、「情念」は人々を近づけるとされる。

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それはそうであったにちがいない。人はまず考えたのではなく、まず感じたのだ。人間はその欲求を表現するためにことばを発明したと主張する人々がいる。この意見は支持できないように思われる。最初の欲求の自然な効果は、人々を近づけることではなく、遠ざけることだった。種〔人類〕が広まり、すばやく地球全体に人が住むようになるにはそうでなければならなかった。そうでなければ、人類は地球の一隅に寄せ集まり、残りの全体が荒野のままだっただろう。

(Rousseau1781: 364, 増田訳23〜24頁, 下線引用者)

ここで言語の起源を考察する際に、ルソーは「思考」よりも「感性」が先行する点を考慮している。この点について私は個人的にはフォイエルバッハの著作(「哲学改革のための暫定的命題」など)を思い出さずにはいられなかった(が、今は立ち入らないことにする)。

 ともかく、ルソーは「人間はその欲求を表現するためにことばを発明した」という主張を斥ける。一体何故であろうか。

 だが、そもそも「欲求」や「情念」といったものが人々を遠ざけたり、近づけたりするものだろうか、と私は疑問に思う。人々が互いに遠のいたり近づいたりするのは、場の要素(あるいは経済性とでも言おうか)が大きいのではないだろうか。衣食住を確保できるのは、土地柄(気候や風土)も関係していると思われるからである。人はどこにでも住めるわけではないのである。

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生きる必要によって互いに避け合う人間たちを、すべての情念が近づける。

(Rousseau1781: 365, 増田訳24頁, 強調引用者)

確かに「情念」はルソーの考えるように人々を近づけるかもしれない。だが、「情念」をこじらせてしまうと、近づこうとする相手がかえって離れていくこともあるかもしれない。

 

第三章 最初の言語は比喩的なものだったにちがいないということ

 ルソーによれば、最初の言語は「詩」だったという。

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人間がことばを話すパルレ最初の動機となったのは情念だったので、人間の最初の表現は 文 彩トロップ だった。比喩的なフィギュレことばづかいは最初に生まれ、本来の意味は最後に見いだされた。事物は、人々がその真の姿でそれを見てから、初めて本当の名前で呼ばれた。人はまず詩でしか話さなかった。理論的にレゾネ話すことが考えられたのはかなり後のことである。

(Rousseau1781: 365, 訳26頁)

訳語について若干述べておく。ここでは«Tropes»に「文彩」の訳語が採用されている。しかし、修辞学の伝統においては«Trope»が「転義(法)」と訳されてきたのであって、他方で«figuré»が「文彩」や「比喩的なもの」と訳されてきた。内容的には、この章でルソーが「比喩的なことばづかい la langage figuré」について論じていることを考慮すると、ここで«Tropes»を「転義(法)」*2と訳しても良いのではないだろうか。

raisonnerも「理論的に」というよりは「理屈で」という感じではないだろうか。「理論的」と訳すと、その対として「実践的」が想起されるのだが、ここではそうではないであろうから。

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こうして情念がわれわれの目をくらませ、情念によって与えられる最初の観念が真理のものではないとき、比喩的なフィギュレ語は本来の語よりも先に誕生する。私が語や名前について言ってきたことは、言い回しについても何の問題もない。情念によって提示された幻想のイメージは最初に示されるので、それに対応する言語も最初に発明された。精神が啓蒙されその最初の間違いを認め、誤りを生み出したのと同じ情念でのみそれらの表現を使うようになり、その言語はそれから比喩的なメタフォリックものになった

(Rousseau1781: 366, 訳27頁, 下線引用者)

ここで«figuré»と«métaphorique»はどちらも「比喩的」と訳されているが、本来であれば両者を区別して後者(«métaphorique»)を「隠喩的」と訳すべきであろう。両者を混同してしまっては、それこそルソーの「文彩(ことばのあや)」を理解できなくなってしまうおそれがあるからである。少なくとも「隠喩」は修辞学の伝統において厳密に取り扱われてきたのであり、その区別はアリストテレス詩学』にまで遡ることができる*3

 情念により不明な対象に対して抱かれた最初の観念によって付けられた名前が、その内実が明らかになるや否や実は不適切な名前だったことがわかり、訂正されて言葉が差し替えられる。初期の言語に見られるこのような言葉の転用から、最初の言語は「比喩的なものになった」とルソーはいう。

 この箇所をよく読むと、〈比喩的な言語〉よりも前の段階として、情念によってもたらされた間違った観念に基づく暫定的な言語こそが最初の言語であったことがわかる。〈比喩的な言語〉が可能となるのは、その表現が誤りだと気づいてからのことであり、誤りだと気づくまでは誤りは認識されていないのだから、話者にとってその表現は比喩ではなかったはずである。まさしく「その言語はそれから比喩的なものになった」のである。比喩的な言語以前の原初的な言語は、情念がもたらした最初の観念によって発明された言語であり、しいていうなら〈情念的な言語〉であろう。

 このことを表で示すと以下のようになる。

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 時間軸として見れば、システム1(情念的)からシステム2(理性的)へと移行する。

 システム1は情念によってイメージが喚起されることによるものである。システム1の段階での判断は最速だが、ゆえに誤りが伴う可能性を常に秘めている。

 これに対してシステム2はシステム1の検証に基づく(エラー訂正的な)判断である。システム2はシステム1の後にやってくるため遅行性だが、理性的である。

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文献

*1:訳注では「ここでいう「オリエント」とは、古代の地中海世界東部、すなわち中近東を指す」とある(訳25頁)。

*2:ルソーがこの『言語起源論』を書いていたのとちょうど同じ頃に、バウムガルテンは『美学』(第二巻、1758年)の中で文彩 figura と転義 tropus について述べている(バウムガルテン2016、第47節「転義」§783以下)。ちなみにこの書によれば、「転義(法)」とは修辞学の伝統において「その固有の意味から別の意味への、利点を伴う語、語法の変化」(クインティリアーヌス『弁論家の教育』8.6.1)と解されてきたが、それにとどまらない意義を持っているとされる(§780)。この点について詳しくは井奥2016をみよ。

*3:「隠喩(metaphora)は、非本来的な意味へと適応される語の転用である。たとえば、類から種への、種から類への、ある種から他の種への、あるいはまた、類比に即しての転用である」(アリストテレス詩学』1457b10)。

『音楽思想史』への取り組み(1)——ルソーとアドルノを中心に

目次

はじめに

 私は『音楽思想史』に取り組むことにしました。

 『音楽思想史』に取り組むきっかけとなったのは、小学館がWeb上で公開していた小学館の図鑑NEOメーカー*1で、ふと『音楽思想史』という表紙の画像を作成したことでした。

 不思議なことに表紙のイメージができたことでその中身を自分で書いてみたくなりました。もちろんどんな内容となるのかは今のところまだ自分でもよく分かっていません。しかし、自分にとって未知のことを書こうとするからこそ、この取り組みは面白いのです。

 『音楽思想史』目次(予定)をnoteで公開しておりますので、是非ご覧ください!

note.com

 

『音楽思想史』のために最近買った本

 私は音楽についてはズブの素人ですから、『音楽思想史』について書くためには多くの参考書籍を揃えなければなりません。さしあたってアタナシウス・キルヒャー『普遍音樂』(工作舎、2013年)、ジョスリン・ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑』(工作舎、1986年)、Th. W. アドルノ音楽社会学序説』(平凡社、1999年)、アドルノ『不協和音』(平凡社、1998年)の四冊を購入しました。

 

アタナシウス・キルヒャー『普遍音樂 調和と不調和の大いなる術』(菊池賞訳、工作舎、2013年)

 

ジョスリン・ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑 よみがえる普遍の夢』(川島昭夫訳、澁澤龍彦中野美代子荒俣宏解説、工作舎、1986年)

 

Th. W. アドルノ音楽社会学序説』(高辻知義・渡辺健訳、平凡社、1999年)

 

Th. W. アドルノ『不協和音 管理社会における音楽』(三光長治・高辻知義訳、平凡社、1998年)

 

『音楽思想史』に関する先行研究——ルソーとアドルノを中心に

 『音楽思想史』に取り組むにあたって、読まなければいけない先行研究がたくさんあります。ネットで検索すると関連する文献が芋づる式で出てきます。それらの文献を効率的に捌くために、Twitter上で論文の一部を抜粋してツイートしてみました。

抜粋ツイートのメリットは、総じて読むスピードが上がることです。140文字におさまるように一箇所だけ論文から大事な箇所を探すのですが、その際に頭の中で「この箇所は周知の事実を辿っているだけなのか」「この箇所は著者独自の考えが述べられたところなのか」を区別しながら読んでいきます。その上で、自分にとって重要だと思った箇所を抜粋します。ただし、140文字で抜粋することが難しい場合もあります。その場合には簡潔なコメントを残すのが良いかもしれません。

 

ルソー関連文献

内藤義博「ルソーの音楽思想の形成 その三 『百科全書』の《音楽》について」(仏語仏文学 26巻、1999年)

 

内藤義博「ルソーにおける音楽模倣論の系譜と展開(前編)」(仏語仏文学 27巻、2000年)

内藤先生の研究を読むと、ルソー音楽論の背後にあるコンテクストがはっきりと浮かび上がってきます。ラモーの『和声論』と対照的に、ルソーの音楽思想が自身の中でいかにして形成されてきたのかが明らかにされています。

 

アドルノ関連文献

小川博司「反ノリの理論家としてのアドルノ ——ノリの社会学に向けて——」(関西大学社会学部紀要、2016年)

小川先生はこの論文の中でアドルノの音楽論とポピュラー音楽との対立図式という既存路線を立て直すことを試みています。

「ポピュラー音楽研究者には、一般にアドルノはポピュラー音楽を批判していると理解されている。しかし、アドルノが批判しているのはポピュラー音楽だけはでなく、芸術音楽も含めて20世紀社会における音楽のあり方全般である。アドルノの議論をポピュラー音楽批判家として読んでいくと、どうしても芸術音楽とポピュラー音楽がそれぞれの本質を備えているかのように考えてしまう。例えば、ポピュラー音楽には快楽が伴うが、芸術音楽には快楽が伴わないといった落とし穴にはまってしまう。本節においては、アドルノの音楽についての議論をポピュラー音楽対芸術音楽という二項対立図式で読み解くのではなく、言語としての音楽と容器としての音楽という二項対立図式の中で読み解くことにする。」(小川2016、8頁)

ただし小川先生の読解は既存の図式を、すなわち従来の「ポピュラー音楽対芸術音楽という二項対立図式」を「言語としての音楽と容器としての音楽という二項対立図式」へと置き替える試みであって、アドルノ音楽論の読解において二項対立図式そのものが捨てられているわけではない点については、再検討する必要があるのではないかと思いました。

 

菊池由美子「〔書評〕Th. W. アドルノ著『音楽社会学序説』渡辺健・高辻知義共訳——十二の理論的な講義——」

評者の菊池先生は、アドルノの著作ほど要約困難なものはあるまいという訳者のことばを引きつつも、アドルノの『音楽社会学序説』の要約を試みています。

 

高安啓介「アドルノの講演「不定形音楽に向けて」への注釈」(愛媛大学法文学部論集 人文科学編 30巻、2011年)

不定形音楽にとって逸脱されるべき形式は伝統的な音楽のうちにあるわけで、換言するならば、不定形音楽は伝統的な芸術音楽の形式を前提条件としているのであり、その意味では不定形音楽は真の意味で自由とは言えないのかもしれません。

 

内藤李香「初期アドルノにおける音楽とキッチュをめぐる考察——イデオロギーとしての「キッチュ理念」の解明——」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊 哲学 東洋哲学 心理学 社会学 教育学 57巻、2012年)

東口豊「〔書評〕テオドール・W・アドルノ著, 高橋順一訳『ヴァーグナー試論』」(音楽学 59巻1号、2013年)

(以下につづく)

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*1:タイトルと画像を任意に設定して自分だけの「小学館の図鑑NEO」の画像を作成できるコンテンツ。

図書館としてのコーヒー・ハウス

 現代の多くの喫茶店からはとっくの昔に失われてしまっていますが、かつてコーヒー・ハウスには、図書館ライブラリーとしての機能があったそうです。

多くのコーヒーハウスでは、パンフレットや山積みにされた小冊子(tract)のみならずニュースレター(news letter)や、後には多数の新聞が置いてあった。人々はここで各種の情報を入手することができた。また「コーヒーハウス以外の場所で新聞を読むことは可能であったけれども、ずっと不便であった」のである。

中島純一「マスコミュニケーション史への一考察(Ⅱ)—コミュニケーションチャネルとしてのコーヒーハウスとLibrary—」横浜商大論集第21巻第2号、1988年、63頁

基本的には喫茶店に図書は見られなくなりましたが、例外的に、岩波書店の書籍を設置したカフェとして「神保町ブックセンター」があります。

www.jimbocho-book.jp

また蔦屋書店はスターバックスのようなカフェを意図的に併設しているようです。

president.jp

これらの喫茶店は、ある意味で図書館としてのコーヒー・ハウスという原点への回帰を、そのコンセプトにしているのかもしれません。

規定性の捨象と創造性——喫茶店の源流としてのコーヒー・ハウス——

はじめに

 今回は「規定性の捨象と創造性」と題して、喫茶店の源流としてのコーヒー・ハウスについて取り上げたいと思います。

 前々回の「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」をリリースした直後、いくつかのコメントをいただきました。それらのコメントについては、前回の「「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」へのコメントとそのリプライ」で紹介した通りですが、それらのコメントの中には哲学者・永井均先生による「挙げられていないもっと根源的な理由があるような気がしてならない」という考えさせられるコメントがありました。

 このコメントをもらったことがきっかけで、僕はその「もっと根源的な理由」とは一体何だろうと考えを巡らしました。

 その結果「もっと根源的な理由」を明らかにするためには、コーヒー・ハウスの歴史にまで遡る必要があるのではないか、と僕は思い当たりました。——もしかすると、従来は主に17世期以降の社交性や公共性、世論形成の観点から考察されてきたコーヒー・ハウスの歴史まで遡り、どこかの時代で、喫茶店やカフェといった場所が、公共性を有する社交の場所から個人が集中して作業する場所へと構造転換を果たしたのではないかということが解明されると面白いのではないか。そして同時に喫茶店は、現代人の生活スタイルを支え、生活地域や所属組織のネットワークの切断と接合を兼ねている場所としてもあらためて考察されることによって、より根源的な理由が見つかるのではないか。——このような直観を僕は抱きました。

 以下では、このような直観を抱きつつ僕がコーヒー・ハウスについて調べ考えたことを取り留めもなくまとめておきたいと思います。

 

茶店の源流としてのコーヒー・ハウス 

 喫茶店の源流として考えられるコーヒー・ハウスとは一体何でしょうか。少し長いのですが、引用します。

コーヒーハウスは新しい飲み物を提供する単なる飲食店ではなかった。これが人気を博した大きな要因は、勃興しつつある活字文化、ニュースや時事的印刷物、「ニュース革命」と結びついた点にあった。そこには新聞が常備され、新たに出版された本屋、商品の市況に関する情報が提供されることもあった。コーヒーハウスは人々の新しい社交の場であっただけでなく、知識・情報を集め、交換し、意見を交わす場でもあった。その意味で、コーヒーハウスはきわめて都市的な、、、、空間だったと言える。それは教会や市場、ギルド仲間や近隣社会などの伝統的な、、、、社交の場とは異なった、人と人を結びつける新たな場——「市民的社交圏」と呼んでおこう——を提供するものだった。

(中野 2007:41、傍点引用者)

つまりコーヒー・ハウスとは、当時流行しつつあった活字文化に支えられて、様々な身分・階級の人々が商取引と情報と意見をくみ交わす社交の場所であり、したがってそれ以前に存在したギルドのような閉鎖的集団の中でのつながりとは異なるネットワークを生み出していたのです。

 これを現代的に言い換えるなら、人々は会社員であったり、大工職人であったり、芸術家であったり、大学教員であったり、はたまた所属組織の中で様々な役割を与えられ、何らかの規定性を有しています。喫茶店では、そのような自身の規定性を捨象して、いったん括弧に入れて措いておくことができるのです。

初期のコーヒー・ハウスには、身分・職業、上下貴賤の区別なく、どんなぼろを着た人間だろうと、流行の衣裳に身を固めた伊達男だろうと、誰でも店に出入りすることができた。いわば一種の「人間の〈るつぼ〉」的性格を持っていたのである。

(小林 2000:50)

一方でイギリスは階級社会と言われており、上から下までに様々な社会階層が存在します。他方、日本では人々がファストファッションブランドに身を包み、一見すると社会階層が見えにくくなっているようにも思いますが、しかし時にその人の立ち居振る舞い、言語表現の仕方によって、何らかの育ちや社会階層、あるいは世代間格差による見解の違いが表面化せざるを得ない場面もあります。喫茶店では、とりあえずそのような違いをいったん無視して、様々な社会階層の人々が同じ場所に居ることができるわけです*1

 

規定性の捨象と創造性

 このような没階級性という喫茶店の特徴は一体何を意味するのでしょうか。前回取り上げたビジネス・インサイダーの記事によれば、オープンオフィスでは生産性を損ねるのは、知り合いへの対応に注意を払わなければならず、そこにリソースを割かなければいけないから、という理由が挙げられていました。が、そもそもオープンオフィスはあくまで社内に対してオープンであるに過ぎず、その建物自体は社外の人間に対しては閉鎖的であり、その閉鎖空間の中で創造的な課題を行う場合、人間は無意識のうちに組織の中で自分に与えられた役割やポジションの中で遂行可能な範囲でしか発想できず、このような心理的な壁が創造的な課題において生産性を下げる要因になっているのではないでしょうか。あるいはオープンオフィスはある意味でコーヒー・ハウス以前のギルド的な社交性に留まっているに過ぎないと言えるかもしれません。

 これに対して喫茶店では、自身の組織内での役割やポジションといった規定性を捨象して、いったん括弧に入れて措いておくことができる。これにより自身の有する規定性によって形成された心理的な壁を壊して、より自由な発想を持てるようになる。だからこそ喫茶店では創造的な課題において生産性を高めることができるのではないでしょうか。

文献

*1:ただし、当時のコーヒー・ハウスは誰でも入れたわけではなく、現代のジェンダー観からすれば不当であろうが、そこでは女性の存在が排除されていたのである。「コーヒー・ハウスの利用についてもうひとつ指摘しておきたいことは、男性以外の客は立ち入りを許されなかった点である。「人間の〈るつぼ〉」といっても、人間の半分のみが許されて入ることのできる世界で、その点では明らかな差別が行なわれていたといえるかもしれない」(小林 2000:55)。

「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」へのコメントとそのリプライ

はじめに

 昨日リリースした「喫茶店と資本主義の精神ーー喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか」には多くのアクセスがありました。

はてなブログアクセス解析によると、僕のブログの普段のアクセス数は一日20〜40程度なのですが、昨日一日のアクセス数は1343であり、今日もすでにアクセス数が300を上回っています。Googleアナリティクスによると、昨日のユーザー数は1069で、前月比3139.39%という異常な伸びを示しました。このような異常値は、Twitterでも書いた通り、最初に千葉雅也先生にRTされたことにより、多くの方々にアクセスしていただけたからだと思っています。

 今回は「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」に頂いたコメントを紹介し、それにリプライしたいと思います。

 

「もっとめちゃめちゃ色々引用引っ張ってきて根源的な理由を指摘してくるかと思って開いたのにシンプルなことがひたすら理路整然と書いてあって肩透かしを食らった」(なかぬす)

 まず僕が面白いなと思ったコメントは、なかぬす(@ryoh60814)さんの一連のコメントです。なかぬすさんは「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」を読んだ多くの人々が言語化せずに読んで思ったことを次のように言葉にしてくれています。

僕が特に面白いと思った部分が「もっとめちゃめちゃ色々引用引っ張ってきて根源的な理由を指摘してくるかと思って開いたのにシンプルなことがひたすら理路整然と書いてあって肩透かしを食らった」というなかぬすさんの次のコメントです。

 普段ブログを書くときは、引用とか参考文献を示すことが多いのです。やろうと思えば、そのタイトルがヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を捩ったものであることは容易に分かりますし、「集中力の強化」という概念の元ネタはマルクス資本論』にありますので、それらを脚注に載せても良いかもしれません。が、今回は本を開かずに一気呵成に書き上げたということもあり、最初は脚注を付けずにブログ記事をリリースしました(その後、2019年12月19日に脚注を追記しました)。

 今回は、脚注のようなエビデンス情報を重視するよりも、むしろブログ記事のリリースまでのスピード感を優先しました。「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」を書くきっかけとなったのは、すでに申し上げている通り、千葉雅也先生による次のツイートでした。

このツイートがなされたのが「午後0:18 · 2019年12月18日」です。そして千葉先生のこのツイートに触発されて、その理由を箇条書きにしてツイートし、最終的にブログとして書き上げて、Twitter上でリンクを貼ってリリースしたのが「午後2:48 · 2019年12月18日」です。つまり、アイデアの大元となった千葉先生のツイートからわずか2時間半の間に、この原稿を書き上げて公開したことになります。僕としては、千葉先生のツイートが冷めきらないうちに、自分の中にあるものをある程度まとめて、世に送り出したかった。

 たった2時間半のうちに多くの人々が読んで耐えうるものに原稿を仕上げるというのは、どんなに内容が薄っぺらいものだとしても、その原稿が一つのまとまりとして書き上げられたこと自体が奇跡のようなものです。普通はテーマが与えられてもアイデアが浮かばず、グタグダ過ごしながら締め切りを迎え、そして締め切りすらも過ぎていく、なんてこともよくあるわけです。その奇跡を実現できたのは、まさにこの原稿を喫茶店で書いたからです。この原稿がわずか2時間半のうちに完成したというプロセスそのものが、実は「喫茶店で仕事が捗る」ことの証左にもなっているわけです。

 

「他者に見られる/他者が見える場所」(松田太希)

 次に、何人かの人に、僕が書いたものには「他者の視点」が欠けているとのコメントをいただきました。

 例えば、松田太希(@SchreibeinBlut)さんは、喫茶店で仕事が捗る理由として「他者に見られる/他者が見える場所」という要素を挙げています。

 僕自身は、あまり他者の視点を気にしないからこそ、喫茶店で集中できるという認識を持っていたのですが、思いの外、「他者に見られる」ことの重要性を何人かの(リアル友達も含めて)方々からコメントを頂きました。

 amamori(@rainywoods2001)さんも、他者の存在を意識していることが重要なのだと指摘しております。

amamoriさんのいう「知り合いではない他人と同席する軽い緊張感、同じ作業をしているわけではないが軽い連帯感、互いのパフォーマスをさりげなく見せ合っている高揚感」という視点は面白いですね。これは全く僕が書いていない要素です。

 喫茶店では、漫画喫茶とは異なり空間が仕切られておらず、オープンになっているということにより、他者の存在を意識せずにはいられません。これがもし漫画喫茶であれば、個室ですから、他者の存在を気にせずに仕事ではなく漫画を読むことやゲームすることが捗るようになってしまうかもしれない。

 もちろん喫茶店にいるときに自分が他者を注視したり、あるいは自分が他者に注視されているわけではないと思うのですが、実はそうであるかのような意識を抱いている。松田さんのいう通り、このように「他者に見られる環境/他者が見える環境」であることも、喫茶店で仕事が捗るための重要な要素の一つなのかもしれません。

 ちなみに、先日のビジネス・インサイダーの記事では、オープンオフィスが生産性に及ぼす弊害が、時折コーヒーショップと対比しながら、述べられていました。

www.businessinsider.jp

この記事の中では次のように述べられています。

コーヒーショップは生産性アップの助けになるのに、なぜオープンオフィスはその妨げになるのだろうか? この疑問には、科学的な答えがある。

カリフォルニア大学バークレー校の認知神経科学者で職場の生産性コンサルタントでもあるサハル・ユーセフ(Sahar Yousef)氏は、人間は「部族」だと言う。つまり、人間は自らの社会集団と心のつながりを築きがちなのだ。

オープンオフィスでは、人々は心のつながりのある同僚とコンスタントにやりとりをすると、ユーセフ氏は指摘する。心理学的に、人間は仕事上のタスクよりも自身の周りの「部族」に気を取られるのだ。

だが、コーヒーショップでは、周囲に自分と心のつながりのある人間はおらず、仕事により集中できる。

この記事によると、会社のオープンオフィスでは、知り合いの同僚とのやりとりにリソースを割かなければならず、それゆえに生産性を下げてしまうが、これに対して、喫茶店では知り合いがいないから、仕事の生産性を上げることができるとの見解が示されています。

 以上の点を考慮すると、喫茶店における他者との関係は、次のように説明できそうです。

 人は喫茶店で集中したいときに、知り合いではない他者には見られたい、そしてまた知り合いではない他者を自分の視野に入れておきたいが、知り合いには自身の姿を見られたくない。ある意味で開放性と内向性を両立させうるような要素が喫茶店には存在し、これこそが喫茶店で仕事が捗る要因の一つと言えるのかもしれません。

 

「挙げられていないもっと根源的な理由があるような気がしてならない」(永井均

  最後に哲学者・永井均(@hitoshinagai1)先生によるコメントを紹介します。

永井先生は「挙げれれている理由はすべて正しいと思う」と、一応僕の書いたところまでは同意した上で、加えて「挙げられていないもっと根源的な理由があるような気がしてならない」と述べています。つまり、僕は「喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか」という問いに対して、一定の諒解を得られるような暫定的な答えを述べてはいる。が、しかしながら、この問題に対してはより深く考察できるのではないか、という直観が永井先生の内にあるようです。

 そこで僕は永井先生に聞いてみました。

 「永井先生の考える「挙げられていないもっと根源的な理由」とは何でしょうか?」と。すると、永井先生からこのような返事をいただきました。

ですよねー!なるほど。「挙げられていないもっと根源的な理由があるような気がしてならない」が、それがまだ言語化されるに至っていない状態のようです。

 もし本当に「挙げられていないもっと根源的な理由がある」とすれば、僕もそれを知りたいと思います。 

 

おわりに

 「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」が多くの人々の目に触れたというのは嬉しい限りです。

 今回紹介したコメント以外にもコメントをいただいておりますが、残念ながら網羅的には紹介できておりません。とはいえ、いずれも目を通してさらなる思考のための刺激を受けております。拙い原稿をお読み頂き、どうもありがとうございました。

喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——

はじめに

 今回は「喫茶店と資本主義の精神——喫茶店で仕事が捗るのは何故なのか——」というテーマで書きたいと思います。

 このテーマのきっかけとなったのは、千葉雅也先生の次のツイートです。

「生産性の神様」という素晴らしいパワーワードが出てきていますが、これは本当にそうですよね。

 「ルノアールで仕事をする」ということは、もちろん「仕事の相手と商談する」というのもよく見られる光景だと思いますが、それ以外にも本を読んだり、思索を深めたり、事務作業や原稿諸々含めてアウトプットするということもあるでしょう。

 僕の場合は、近くにルノアールがありません。なので、代わりにベローチェサンマルクドトールコーヒーなどを愛用して、そこでこのブログを書いたり、本を読んだり、Googleドキュメントにノートをまとめたり、内省の時間を設けています。これらのチェーン店だけでなく、マクドナルドやモスバーガーも利用することがあります。いずれのチェーン店でもコーヒーが飲めますし、お腹が空いていれば同時に軽食も楽しめます。本稿では、これらの大手チェーン店を「喫茶店*1としてひとまとめにして扱います。

茶店で仕事が捗る理由 

 さて本題ですが、喫茶店で仕事が捗るのは一体何故なのでしょうか。

 千葉先生のいう通り、喫茶店には「生産性の神様」がいる。「生産性」という概念は、資本主義の精神そのものです。喫茶店には、このような仕事の「生産性」を高める要素が散りばめられている。その要素とは、一体何なのか。

 僕は次のように考えました。

これらの要素を一つ一つ見ていきましょう。

 

1、適度な室温、適度な雑音

 ここでは身体にとって適度な環境について考えていきます。

 適度な室温は、温度によって集中力を削がれないための重要な要素です。

 仕事に集中する場合、室内は寒すぎても暑すぎてもいけません。寒いと家に帰りたくなります。冬に室温が暑くても、ムワッとして外の風を浴びたくなります。夏に外が暑いからといって、冷たい風に当たるのも辛いです。理想を言えば、風が当たらず、暑すぎず、寒すぎずという室温がちょうど良いでしょう。

 適度な雑音は、によって集中力を削がれないための重要な要素です*2

 あまり静かなところ、例えば図書館の自習スペースとかは、僕は馴染めません。静かすぎると、小さな音も気になって集中できない。これに対して、喫茶店では、クラッシックやBGMなどの音楽が流れています。席と席が適度に離れていれば、人々の会話はただのガヤになります。もちろん隣の人々の会話の内容が聞こえるようになってしまうと、時々目の前の仕事に集中できなくなるかもしれませんが、ほとんどの場合は無視できます。

2、限られたスペース、限られた手元資料、限られた利用時間

 ここでは空間・道具・時間の制約によるメリットを考えていきます。

 限られたスペースは、移動を最小限に抑えるための重要な要素です。

 自分の部屋、自分の研究室であれば、資料をそこに置いたままあっちこっちに移動できます。なぜなら、そこに自分の物を置いておいても、基本的に盗まれる心配がないからです。しかしながら、喫茶店で座る椅子と机は、自分のスペースではなく、喫茶店のスペースです。よって、退店するまで、その店舗内で無駄な移動をする理由はなく、移動しないが故に目の前の仕事に集中することができるわけです。

 限られた手元資料は、目の前の道具だけで集中するための重要な要素です。

 原稿を書いていると、どうしても手元にない資料が気になってきます。もちろんその資料がないと先へ進めない場合は、資料を取り揃えて出直してくる必要があります。しかしながら、多くの場合は、目の前の道具だけである程度仕事を進めることができるのです。手元に無い資料は、別の機会に補完すれば良い。

 限られた利用時間は、集中力を強化するための重要な要素です。

 時間無制限で利用でき、特に立ち去る必要のない場所では、人はなかなか集中することができません。なぜなら、「今」に集中する必要性がないからです。これに対して、喫茶店では、そもそも長居することはできません。喫茶店でずっと居座ると迷惑な客になってしまいます。なぜなら、お店側からすれば、資本の論理によって利用者の回転率をもっと上げなければならないからです。同時に、実は利用客自身がそのような「資本主義の精神」を内在化することによって、そこで利用できる時間あたりの生産性を上げることに資するわけです。換言すれば、「回転率を上げなきゃいけないのに、ここで仕事させていただいてすまんな」という罪悪感こそが、喫茶店での生産性を高めるのに役立っているのです。

3、知り合いに声をかけられないという安心感

 喫茶店で知り合いに声をかけられないということは、思考や文字表現を中断させられないための重要な要素です。

 仕事のほとんどは、人に声をかけられることによって一時中断されます。自分の仕事を一旦置いておいて、その人に対応しなければならないからです。

 事務作業であれば、一時中断したとしても後で続きを行う事は可能です。しかしながら、思考をめぐらせている時に声をかけられると何が困るかというと、その思考がまだ文字として表現されるに至っていない時に人に声をかけられて思考の中断を強いられるや否や、その時の思考そのものが消え去り、その思考を取り戻すのはなかなか難しいということです。その思考とは、ベンヤミンが『歴史の概念について』のテーゼで述べているような、目の前をさっとかすめて消えゆくようなはかない存在*3であり、それを掴み取ることこそが重要なのです。

4、課金しているという意識

 入店するためにコーヒーやパンなどに課金することは、課金した金額分のもとを取ろうと努力するための重要な要素です。

 その都度利用料金を払わない図書館の自習室のようなフリースペースでは、実際のところは税金とか学費とか様々な形で料金がかかっているにもかかわらず、その課金意識を維持することが難しいが故に、目の前のことに集中せずに時間を持て余してしまう恐れがあります。

 これに対して、喫茶店は毎回タダでは利用できません。利用するためにはその都度必ず何かしら注文しなければなりません。たかだか数百円の課金ですが、日常的に喫茶店を利用するとなると、年間では大きな金額になりえます。個人でお金を使うということは、経済学でいえば予算制約線の中で何に使うかを決めて振り分けて使うという意味で、資産上の制約があります。このような資本主義の精神を内在化している利用客は、課金した数百円分のもとを取る為に、集中力を高める努力をすることができるのです。

おわりに

 以上、私が普段、喫茶店を利用しながら考えていることを言語化させていただきました。

 今回書きながら私自身が新たな発見をしたのは「喫茶店の利用客自身が資本主義の精神を内在化させている時に限って、喫茶店で生産性を高めることができるのではないか」という仮説を持てたことです。ただし、このような発見はあくまでまだ仮説、あるいは臆見に過ぎないことを注意しておきます。

*1:【2019年12月20日追記】喫茶店すなわちカフェの研究としては、伊藤眞「私的カフェ論(その1〜9)」(三田商学研究 59(5)〜61(3)、2016〜2018年)がある。喫茶店をまとめたものとしては、JUNATA「【ルノアール・ドトール】カフェ・コーヒーショップ・喫茶店チェーンまとめ【スタバ・タリーズ】」(NEVERまとめ、2017年)に詳しい。【追記おわり】

*2:【2019年12月19日追記】適度な雑音についての研究としては、次のようなものがあります。Ravi Mehta, Rui (Juliet) Zhu, Amar Cheema, "Is Noise Always Bad? Exploring the Effects of Ambient Noise on Creative Cognition", in: Journal of Consumer Researtch, vol.39, 2012.(ラヴィ・メータほか「雑音ノイズはいつでも悪なのか?:周囲の雑音が創造的認知に及ぼす影響を調査する」JCR 39号、2012年。)この研究によれば、50dBデシベルの比較的静かな環境よりも、コーヒーショップやテレビをつけている時にみられる70dB程度の周囲の雑音の方が、創造性においてパフォーマンスを向上させるそうです。ただし、それ以上に高い85dB程度の雑音では、かえって気が散ってしまって創造性をダメにしてしまうのだそうです。なおこちらの記事によれば、適度な雑音が有効なのは創造的な課題に対してだけであって、論文の校正作業や租税計算などのようにミスが許されない厳密さが要求されるような細かい課題には、より静かな環境の方が向いていると著者のメータ博士は述べているようです。【追記おわり】

*3:【2019年12月21日追記】テーゼⅤ「過去の真のイメージは、さっとかすめて過ぎ去ってゆく。過去はそれが認識可能となる瞬間にだけひらめいて、もう二度とすがたを現わすことがない、そのようなイメージとしてしか、確保できないのだ。」(ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』鹿島徹訳・評注、未来社、2015年、48頁)。このテーゼについては私が書いたこちらの記事も参照のこと。【追記おわり】