まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

文献表の作成について

 今回は、文献表の作成ついて書きたいと思います。

 私はこのブログで関心のあるテーマについて記事を書いていますが、記事を書く前には必ずと言って良いほど文献表を作成しています。「まだ先行研究で消耗してるの?」*1というふざけたタイトルを採用していますが、私は決して先行研究を無視していいとは考えていません。

 論文を書く場合、当然のことながら先行研究を無視することはできません。先行研究を踏まえた上で、自分の研究が新たに付け加える意義を自ら明らかにしなければなりません。

 このブログ記事は論文ではありませんが、時間が許す限りで先行研究に当たることを常としています。先行研究に当たる前段階として、私は文献表を作成しています。

 私が文献表を作成するにあたって参考にしているサイトは、主にCiNii ArticlesとJ-STAGEAmazon、そしてGoogle検索です。

これらのサイトで検索したものを、Googleドキュメントで文献表として手入力でリストアップします。

f:id:sakiya1989:20181218184947j:plain(文献表の例。Googleドキュメントでクラウド上に保存してある。)

 手入力で文献表を作成するのはだいぶ骨が折れます。「もしかしたら文献表を作る必要などないかもしれない」とさえ思うこともあります。というのも、CiNiiやJ-STAGEで「ヘーゲル」や「ベンヤミン」と入力すると、そのワードで引っかかった論文が一気に表示されるのですから、読む必要に応じてその都度検索すれば良いような気もします。実際、文献表を作るだけならば、Webスクレイピングで自動化すれば事足ります。

 しかし、注意しなければならないのは、文献表を作ることそれ自体が目的なのではなく、文献表の作成は関心のあるテーマについて適切に書くために必要な通過儀礼であるということです。というのも、私は文献表の作成という過程を通じて、その関心のあるテーマの文献表を常に頭の中に思い浮かべることができるようになり、しかもこの想起が原動力となってふと「あの文献を読もう」という意欲が生まれてくるからです。このような効果を期待して手入力で文献表を作成しているのですから、文献表の作成を自動化することは(それが可能であるとしても)できないのです。

 文献を作成し保存するのはGoogleドキュメントがおすすめです。どういうわけか、毎年恒例Twitterでは卒論の時期になると「バックアップを取りなさい」というツイートがTLに流れてくるのですが、ドキュメントファイルをパソコンやUSBメモリにのみ保存するというのは過去のやり方であって、今後はGoogleドライブのようなクラウド上に保存し、書き進めたら自動で保存されるというのが現代のやり方です。

 余談ですが、かつて私が在籍していた一橋大学大学院社会学研究科修士課程では、M2以降の在籍者は全員「リサーチワークショップ(RW)」というものを行うことになっています。RWでは、社会学研究科の指導教員たちを前に自分の研究テーマについて発表します。事前にレジュメを2〜3ページほどでまとめて提出するのですが、レジュメは修士論文目次・概要(3〜4ページ程度)・参考文献から成ります。私が書くために参考文献をリストアップするという習慣を身につけたのは、このRWを通じてだったと思います。

*1:このタイトルはイケダハヤトさんの「まだ東京で消耗してるの?」をもじったものです。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

はじめに

 前々回に引き続き、ベンヤミン「歴史の概念について」の第一テーゼについて書きたいと思います。

第一テーゼ

f:id:sakiya1989:20181212135204j:plain

周知のように、チェスを指す自動人形が存在したという。この自動人形は、相手がどのような手を指しても人形側にその一局の勝利を保証する応手でもって答えられるように組み立てられていたという。この人形はトルコ風の衣装を纏い、水パイプを口にして、大きなテーブルの上に置かれた盤の前に坐っていた。数枚の鏡を組み合わせたシステムによって、このテーブルはどの方向からも透けて見えるような錯覚を与えていた。ところが本当は、チェスの名人であるせむしの小人がその中に坐っていて、人形の手を紐で操っていたのである。哲学においてもこの装置に相当するものを想像することができる。〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ。この<史的唯物論>と呼ばれる人形が進学を〔味方につけて〕自分のために働かせることができるならば、この人形はどんな相手とも十分互角に張り合うことができるのだ。〔神学が自動人形を操るせむしの小人に擬せられる理由は〕神学が今日では小さく醜い存在となっており、そのうえ自分の姿を人目に曝すことが許されていないことは、周知のことだからである。

(Benjamin 1991: 693、平子2005: 2)

第一テーゼは「韜晦的表現による問題提起」(鹿島2013: 10)と言われ、つまり理解するのが難しいと言われることが多いのですが、その難しさは、西欧の文脈において理解されうるイメージを、時間と空間において遠く離れた我々が、ほとんど活字だけで理解しようとするところに起因するのかもしれません。少なくともこの第一テーゼに関しては、補助的に画像を用いたほうが圧倒的に理解しやすいと思われます。とりわけ日本でこの第一テーゼの読解を難しくしているのは、おそらくベンヤミンが「トルコ人」と「せむしの小人」という二つの喩えを用いて、史的唯物論と神学の関係を巧みに表現している点であると思います。

トルコ人

 まず「トルコ人」について簡単にみていきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/Tuerkischer_schachspieler_windisch4.jpg

(ケンペレンの「トルコ人」のスケッチ、Category:The Turk - Wikimedia Commonsより)

上の画像は「トルコ人」という自動人形のイラストです。「トルコ人*1は1770年にケンペレンが発明した自動人形(だと人々は思い込んでいた)です。その中に人間としてのチェスの名人が入っていることを知られることなく、「トルコ人」は84年間にわたってチェスの試合で勝ち続けてきました。

 テーゼⅠでは「口に水煙管をくわえた(eine Wasserpfeife im Munde)」と記述されています。しかし、上のスケッチでは「トルコ人」は水煙管を口にくわえていません。水煙草をくわえた「トルコ人」が確認できるのは、Racknitz [1789]の巻末付録のイラストです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Tuerkischer_schachspieler_racknitz1.jpgRacknitz [1789]の巻末付録のイラストCategory:The Turk - Wikimedia Commonsより)

 「トルコ人」についてはWindisch 1784の記述をもとに三枝2014: 11以下で詳しく描かれています。興味深いことに、当時の人々はこの「トルコ人」を見て不気味に感じたそうです(三枝2014: 13〜14)。AIについての議論が盛んになったちょうど昨年頃に、我々がAIに対して脅威を抱いたのと同じように、ゼンマイ仕掛けの自動人形が知能を持っているように見えるその姿は、当時の人々にとって恐ろしいものだったのかもしれません。

 今となっては、ディープニューラルネットワークによってチェスを習得したAIは、人間に必ず勝って当然の存在となってしまいました。もはや「トルコ人」の喩えはもはや単なる喩えとして通用しないような状況になってしまったと言えるかもしれません。

 そして今日、我々がよく考える必要があるのは、まさにこの点にあります。我々人間がAIとチェスで対局する場合、AIは自動人形のような身体性を持ち合わせる必要がなく、せいぜいディスプレイ上で戦うぐらいです。チェスの名手としてのAIは身体性を持たない知性であり、そこに見つかるのはせいぜいアルゴリズムです。いわゆるAIは、「自動人形」(物質性・身体性)と「せむしの小人」(人間、中の人)の両方から解放された存在のようにも見えます。

japan.cnet.com

 せむしの小人

 次に「せむしの小人」についても簡単にみておきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Offterdinger_Schneewitchen_%282%29.jpg(Carl Offterdingerのイラスト"Schneewittchen und die sieben Zwerge"

ゲーマーであれば、「ドワーフdwarf)」というキャラクターを知っていると思いますが、dwarfという英語は元々はドイツ語のZwerg(小人)に由来します。周知のように、19世紀の代表的な文学者であるグリム兄弟が編集した「グリム童話」には「白雪姫」が収められています。「白雪姫」はディズニーのアニメーションを通じて我々にとっても非常に身近な童話ですが、「白雪姫」に登場する「7人の小人(sieben Zwerge)」こそが我々にとって最もイメージしやすい侏儒かもしれません。

 要するに「小人(Zwerg)」とはちっちゃいおじさんのことであり、しかも「せむし(buckliger)」つまり背が曲がって醜い姿をしているようなちっちゃいおじさんが、先にみた「トルコ人」のテーブルの中に隠れてチェスを行なっていた、ということです。

 以上、ほとんど前置きみたいな話ばかりでしたが、一見すると不要にも思われることをわざわざ取り上げたのは、ベンヤミンの第一テーゼを取り上げて語る論文がほとんど画像を用いずに論じているからです。しかしながら、画像(Bild)は、「歴史の概念について」の他のテーゼでは極めて重要な概念をなしており、したがって我々はこのテーゼを論じる際に画像を用いても良いはずなのです。ベンヤミンの第一テーゼの思想を文学的に読解するためには、少なくとも以上のような「トルコ人」や「せむしの侏儒」のイメージを膨らませて読むことが重要だと私は思います*2

おわりに

 ベンヤミンはこの第一テーゼの中で「人は、この装置に匹敵するものを、哲学において思い浮かべることができる」と述べています。これを真似して言うならば、「人は、この装置に匹敵するものを」、ITの分野においても「思い浮かべることができる」と言えるのかもしれません。昨今ではAIやビッグデータというものがバズワードとして用いられています。AIに任せれば上手くいく、という観念は、まるで「トルコ人」の自動人形のうちに人々が観ていたものを彷彿とさせます。AIやビッグデータといっても、実際には、アルゴリズムを組み直したり、常に問題がないようにインフラを整備している多くの人々の努力があってこそ成り立っています。ビッグデータ解析はとりわけ、データの集積だけで何かの役に立つというたぐいのものではなく、データサイエンティストによる解釈が必要です。女子高生AI「りんな」やBotチャットは自動的に返事をするバーチャルな「自動人形」です。が、深層学習が時としてウェブ上の情報に基づいて偏見を形成してしまう恐れがあるために、「自動人形」がチューリングテストに合格するためには、常に背後に人間が、もしかしたら表舞台には出てこない「せむしの侏儒」が常に見張っている必要があるのかもしれません。「歴史の概念について」の第一テーゼを読むと、AIやビッグデータなどのテクノロジーが、根源的には常にすでに人力に頼っているのだということを、私は想い起こさずにはいられないのです。

文献

*1:トルコ人」はder Schachtürke, der Türke, der Shachautomat, der Schachspielerなどと呼ばれたという(三枝2014: 18)。

*2:アレント2005や白井2012では、ベンヤミンに関連して「せむしの小人(侏儒)」が詳しく取り上げられている。こちらもぜひ読まれたい。

ベンヤミンのいわゆる『複製技術時代の芸術作品』

目次

 前回に引き続き、今回もヴァルター・ベンヤミンについて取り上げたいと思います。

はじめに

 私は少し前まではベンヤミンという思想家をさほど重要視していませんでしたが、ベンヤミンについて調べてみると意外にも面白いことが多く、例えばベンヤミンアドルノに「非弁証法的」と言われていたそうです*1。しかしながら、ベンヤミンの「非弁証法的」な点とは、決してネガティヴに退けられるべきものではなくて、むしろベンヤミンの独自性がそこにあるとでもいうべきポジティヴなものだと思います。この点については別の機会に取り上げます。 

 今回取り上げるのは、ベンヤミンのいわゆる『複製技術時代の芸術作品』です。原題は Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit です。これは直訳すると『技術的複製可能性の時代の芸術作品』です。山口先生は邦訳で原題を直訳にしつつ、「技術的複製可能性」という概念の重要性を次のように指摘しています。

「これまでの標題で「複製技術時代」という表現が選ばれたのは、おそらく「技術的複製可能性の時代」という直訳による表現が、日本語としてはあまりにも生硬で重いためだろう。しかし、「技術的複製可能性」はこのテクストのなかでもっとも中心的な概念の一つである。ベンヤミン論議のなかで「複製可能性」が問題となるのは、それがメディアの技術的進展のもっとも重要なメルクマールであり、そしていうまでもなく、その技術的進展にともなって「オーラの衰退」という芸術概念における根本的な転換が生じるからである。」(ベンヤミン [2011]、404頁)。

この記事のタイトルに『複製技術時代の芸術作品』の呼称を採用しているのは、結局のところこの題名の方が通俗化してしまっているからですが、これがあくまで通称であることを示す意味で「いわゆる」と付してあります。

今『複製技術時代の芸術作品』を読む意義

 先に申し上げておきますと、ベンヤミンの生きていた時代と我々の時代とは状況がかなり異なっているため、今『複製技術時代の芸術作品』を読む意義がどこにあるのかを語ることに躊躇いがないわけではありません。また私は在野研究者なので、わざわざベンヤミンの思想のアクチュアリティなどというものを説かずとも好き勝手に研究すれば良いと思うのですが、それでもベンヤミンの思考のアクチュアルな点について書きたくなってしまうものです。

 まず『複製技術時代の芸術作品』で言われていることは、カメラとフィルムの発明によって写真や映画が登場し、そしてこれらが人々に新たに芸術作品として受容されるようになると、従来、アウラという一回限りの体験としてみなされてきた「芸術」の概念が変容してしまうというものです。つまり、ベンヤミンは「技術的複製可能性」によって「芸術作品」の概念が刷新される時代に立ち会ったのであり、その時代を描写したことによって、歴史に名を残す思想家になったのだと言えます。

 そして時代認識として、ベンヤミンのいう「技術的複製可能性」というものが、現代の我々にとって身近に感じられるようになっていると思います。現代の「技術的複製可能性」を具体的に言うと、YoutubeNetflixのようなストリーミング技術を通じて、またTwitterInstagramTikTokのようなSNSを通じて、ビデオやミュージック、イメージ画像を、遠く離れた地域の多くの人々が手軽に配信・共有できるようになり、体験できるようになったことです。つまり、ベンヤミンのいう「技術的複製可能性」を実現しているのは、(動)画像圧縮技術であり、またそれを伝達するためのネットワークインフラの技術です。現在の支配的なテクノロジーを思想史的に捉えるためには、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を無視することは決してできないと私は思います。 

 

文献

*1:アレント [2005]、254頁。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

目次

はじめに

 最近、私はベンヤミンの著作や関連書籍に取り組んでいます。きっかけはInstagramで写真を始めたことで、ベンヤミンの写真論が気になり始めたからです。ベンヤミンの「写真小史」は、写真が芸術として認知され始めたばかりの頃に執筆されたもので、写真について論じる上でベンヤミンの写真論は避けて通ることができません。

 そういうわけでベンヤミン『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)を買って読み始めたのですが、ついついベンヤミン『歴史の概念について』(未来社、2015年)にも手を伸ばしてしまい、今はどちらかというと「歴史の概念について」の読解にハマっています。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

 ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(いわゆる「歴史哲学テーゼ」)は、ベンヤミン自死後、『社会研究誌』(Zeitschrift für Sozialforshung)の「ベンヤミン追悼特別号」(1942年)において公表された、およそ20のテーゼ群からなる草稿です。この草稿には、一部テーゼが追加・削除されたり修正された複数のバージョンが存在します*1。具体的にはハンナ・アーレントに手渡された手書き原稿や、バタイユに託されたタイプ原稿、ベンヤミンの自筆によるフランス語の手稿などがあります。またベンヤミンを知る人々の間では、この遺稿は「歴史哲学テーゼ」とも呼ばれていました。

 この草稿は第一テーゼからしていきなり難解で、私もかつて学生時代に読んだことがあるのですが、その時はうまく咀嚼できず、すぐに放り投げてしまいました。「歴史の概念について」の個々のテーゼを理解するためには、その他の諸テーゼを交互に行き来しながら、また諸テーゼ全体、あるいは当時のコンテクストを想起しつつ理解する必要があります。この草稿の難解さは、短いながらもまるで解釈学的循環の典型として挙げることができそうなほどですが、しばらく眺めていると「歴史主義」と「史的唯物論」、「勝利」と「敗北」、「メシア的な」ものと「解放」、「歴史の連続体」と「構成」などのキーワードが浮かび上がってきます。これらのキーワードについては、すでに多くの注釈者が述べているところであり、これ以上屋上屋を重ねる必要はないでしょう。

テーゼV──「過去の真の像」の儚さ

「V 過去の真の像はさっとかすめて過ぎ去ってしまう。それが認識可能である瞬間に閃めき、次の瞬間には永久に見えなくなってしまう像としてしか、過去は確固として留めておくことができない。「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」──ゴットフリート・ケラーに由来する、この言葉は、歴史主義の歴史像において、それが史的唯物論によって撃ち抜かれるところをまさに特徴的に示している。というのも、それは〔認識されなくなってしまってからは〕二度と取り返しのつかない過去の像であり、この像は、自分をその過去の像のなかで想念されたものとして認識しなかった各々の現在と共に、消え去ろうとしているのだから。」*2

f:id:sakiya1989:20181128223725j:plain(Benjamin [1991], S. 695)

ここでベンヤミンは「過去の像」の儚さをテーマに語っています。過去の像が儚いものであるがゆえに、留めておくことが難しいのです。しかもそれは決して捉えられないものではなく、認識できるがいつまでも認識することができないものだと表現されています。「過去(Vergangenheit)」とは、その概念からして「過ぎて消え去ったもの」の謂いなのですから、いつまでもこの場に留まっているようなものはそもそも「過去」ではないのです。ここにいつまでもいるようなものはむしろ「現在」です。

 「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」という言葉は、厳密にはゴットフリート・ケラーのものではなくドストエフスキーの『罪と罰』によるものらしいのですが*3、そのような態度で過去と向き合おうとする「歴史主義の歴史像」は、「過去の像」がどれほど儚いものであるかを全然理解していない、という風にも考えられるでしょう。別のテーゼでも歴史主義と史的唯物論の対立が表現されていますが、少なくともベンヤミンの考える「史的唯物論」とは、瞬く間に消え去ってしまう儚き「過去の像」をすくい取るような思想のことを言い表しているようです。

ベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性へのこだわり

 ところでベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」のうちに見られる特徴が何かと言えば、それはベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりかもしれません。

 すでにベンヤミンは一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりを別のところで、すなわち「複製技術時代の芸術」において、複製技術によって失われてしまった「アウラ」という言葉で示していました*4。もちろん「歴史の概念について」では「アウラ」への言及は皆無ですが、「過去のイメージ」がそもそも複製不可能なものであり、そうであるがゆえに「過去のイメージ」はその瞬間において、かつての古典的な意味での芸術の一回性と同型的なものを有しているのです。

 

文献

*1:この点、詳しくはベンヤミン [2015]、28頁以下の鹿島徹による整理を参照されたい。現時点でこの原稿は、自筆原稿が2点、タイプ原稿が4点確認されている。

*2:訳文は、平子友長訳(平子 [2005])、山口裕之訳(ベンヤミン [2011])、鹿島徹訳(鹿島 [2014]、ベンヤミン [2015])を参考にしたが、適宜改めた。

*3:「新全集版の編者注によれば、「真理はわれわれから逃げ去ることはない」という言葉は、詩人ゴットフリート・ケラーの『寓詩物語(Sinngedicht)』(と出典が『パサージュ論』N3a,1に明記されている)には見られない。同時期に読んでいたドストエフスキー罪と罰』ドイツ語訳の第三部第一章にそのまま出てくるため、ベンヤミンが混同したもののように思われる。」(鹿島 [2014]、17頁)。

*4:「芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから抜けきれないということである。伝統そのものは、もちろんどこまでも生きたものであり、きわめて変転しやすい。たとえば古代のヴィーナス像は、それが礼拝の対象出会ったギリシャ人のばあいと、災いにみちた偶像出会った中世カトリック僧侶たちのばあいとでは、それぞれ異なった伝統にかかわっていたのである。しかし、両方のばあいに共通していえることは、ヴィーナス像のもつ一回性であり、換言すれば、そのアウラであった。」(ベンヤミン [1999]、18頁)。

Instagram(2)──調理としてのフィルター

 これまでここ数年にわたって文字における表現を探究してきましたが、Google Pixel 3 XLの新しいカメラを手に入れてからは写真における表現も面白くなってきました。

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 Instagramには写真アプリでおなじみのフィルターを標準搭載しています。「管理」からフィルターを追加すれば、全40種類のフィルターから選択が可能です。

f:id:sakiya1989:20181119144532p:plainInstagramのフィルターは最大40種類から選択可能。「管理」からフィルターを追加して利用できる。)

 ちなみに、僕がInstagramにアップロードした写真もすべてテーマごとにフィルターを適応しています。例えば、横浜駅の写真にはInstagramの「Hefe」フィルターを適用しました。「Hefe」フィルターの特徴はコントラストを強める点にありますので、このフィルターを電飾のある夜景写真に適用すると、黒が引き締まって電飾の色が強調されるようになり、魅せたい部分が浮かび上がってくる効果が得られました。

「フィルター」の語義矛盾?

 ここで一つ面白いのが、「フィルター」という名前がその機能からしてやや語義矛盾であるように使用されている点です。

 本来ならば「フィルター」とは、これによって不純物を取り除くものであり、これはつまり濾過するという機能を持っています。この意味が転じて、例えば「学歴フィルター」と言われるように、一定水準未満の大卒者をふるいにかけて選抜するという意味でも用いられることがあります。この意味におけるフィルターは、それを通して不純物の通過を阻み、純粋なものを抽出することに主眼が置かれています。

 しかしながら、写真アプリにおける「フィルター」は写真素材を加工する機能を持っており、暗くしたり明るくしたり鮮やかにしたり青っぽくしたり、あたかも特殊なレンズを通じて見たような風景へと加工が行われます。これは場合によってはフィルターの適応によってノイズ(不純物)を付加することさえあります。このような意味でのフィルターを料理に例えると、フィルターとは調理だと言えます。つまり、食材を炒めたり焼いたりして、さらに調味料を加えるようなものです。もちろん食材を生でそのまま食べることもできますが、食材を調理することによってより豊かな味わいが得られるのと同様に、フィルターの適応を通じて写真のより多様な表現が可能となるのです。

Instagram──スクエアのうちに表現されし美学

 Instagramをはじめました。

 今までInstagramのアプリさえ触ったことがなかったのですが、今月自分のスマホGoogle Pixel 3 XLに変えたことがきっかけで、新しい機種の写真性能を試してみたくなったので、撮影した写真をInstagramで公開する事にしました。

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※写真はいずれもGoogle Pixel 3 XL(2018年11月1日発売)で撮影

 

 Instagramをやりはじめていくつかわかったことがあります。

スクエア(正方形)と洗練されたUI

 Instagramでは、元画像が4:3や16:9で撮影されていても、初期設定では端っこがカットされてスクエア(正方形1:1)でアップロードされます。もちろん設定を変えればオリジナル比率で表示できますが、InstagramのUIとしてはスクエアで表示することを想定していると思われます。私はここにInstagramの美学を感じました。

 またInstagramiPad専用アプリを作っていないので、iPadInstagramをアプリで閲覧する場合、x1かx2でモバイル同様のアプリを表示することになります。InstagramiPad専用に最適化されたアプリを作っていないということは、逆に考えるとモバイルのような小型のディスプレイに最適化されたUIを追求しているのではないかと勝手に想像しました。

 この点を説明するために、以下で具体的に比較してみましょう。

f:id:sakiya1989:20181113163628p:plainスクショ1

上のスクリーンショットスクショ1)をご覧ください。ここでアップロードされた写真はスクエアではなく、縦に長くなっています。これによって、続くコメントが画面内に収まらず、省略されてしまっています。

f:id:sakiya1989:20181113163257p:plainスクショ2

次に、上のスクリーンショットスクショ2)をご覧ください。ここで写真はスクエアでアップロードされています。写真が画面の一部しか占領していないため、下にはコメントやハッシュタグが並んでいます。つまり、ここでは写真をスクエアで表示する事によって、画面の中にコメントを同時に収めることに成功しているわけです。

 以上の違いから想定されることは、次の通りです。すなわち、Instagramでは、ただ単に各ユーザーが画像だけを他のユーザーに公開し共有するだけでなく、画像と共に据えられた自他のコメントを同時に画面内に表示することも重要視しているということです。

 したがって、先に述べたとおり、Instagramの初期設定ではスクエアで写真がアップロードされるわけですが、Instagramにおいてスクエア表示を基本としていることはモバイルのディスプレイで写真を適切に表現するために追求されたInstagram独自の美学だと思うわけです。

【音楽】よく聴く好きな曲【相川七瀬・茅原実里・MANISH】

特に書くことがありませんので、今回は僕の好きな曲を紹介します。

 

相川七瀬「UNLIMITED」

youtu.be

TVアニメ『SAMURAI 7』の主題歌です。上のサムネは関係なし。

 

茅原実里境界の彼方

youtu.be

TVアニメ『境界の彼方』(2013年)の主題歌だそうです。見たこと無いのでストーリーは知りませんが、曲が良かったので何度も聞いています。

 

MANISH「煌めく瞬間に捕らわれて」

youtu.be

説明不要。この曲を聴くとサビの部分でスラムダンクのEDが走馬灯のように蘇ります。