まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲルの「正義」論

目次

 

今回は、ヘーゲル『法の哲学』におけるヘーゲルの正義論について書きたいと思います。

sakiya1989.hatenablog.com

 

「正義」と「平等」

ヘーゲルの『法の哲学』においては「正義」は総じて「平等」との関わりで登場しますが、テクスト上では「正義」よりも先に「不正義」が語られ、これは配分の不平等との関わりで登場します。

「持ちものと資産との不均等な配分にたいする自然の不正義Ungerechtigkeit der Natur)を論じるわけにはいかない。というのも、自然は自由ではなく、そのため公正(gerecht)でも不正(ungerecht)でもないからだ。」(ヘーゲル [2001]、§49Anm.)

人間は生まれた時は不平等です*1。なぜなら生まれる環境が様々異なるからです。資産に恵まれた環境に生まれる人もいれば、当然、恵まれない環境に生まれる人もいます。

では、「生まれ」という「自然」は不平等なのかというと、そうではないとヘーゲルは説きます。というのも、自然においては正/不正というものはそもそも存在しないからです。先の引用で「自然は自由ではない」と述べられていましたが、「正義」は「権利」と同様に、「自然」という「不自由」のうちにではなく、「自由と意志とのうちに」存在するのです。

「権利と正義(Gerechtigkeit)とは、自由と意志とのうちにその座を有するのであって、おどかしが向けられるところの、不自由のうちにであってはならない。……おどかしはひっきょう、人間を憤激させて、人間がそれにたいしておのれの自由を証示することになりかねない。だがそういうおどかしは正義をまったくわきにおくのだ。」(ヘーゲル [2001]、§99Zu.)

ここで「権利と正義とが自由と意志とのうちに」あるということは、権利と正義とはその根本を同じくしていると言えます。根を同じくしているとはいえ、それでもやはり「権利」と「正義」とは区別されるように思います。

 

iusの分離としての「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」

ところで、長谷川宏さんはヘーゲル『法哲学講義』(作品社、2000年)の翻訳を出すときにタイトルを「正義の哲学」あるいは「社会正義の哲学」にしたかったと述べています(長谷川宏正義のありか011」)。また長谷川宏「社会正義の哲学」(ヘーゲル [2001]所収)でも同様の趣旨が述べられています。

私が次の記事「【抜粋ノート】ヘーゲル『法の哲学』における「正義(Gerechtigkeit)」の用例集」で示したように、ヘーゲル『法の哲学』の中に「正義(Gerechtigkeit)」論はあります。しかし、そのさい、ヘーゲルの権利論が正義論を包摂しているのであって、その逆ではないことに注意が必要です。

長谷川宏さんの訳し方では、RechtもGerechtigkeitも「正義」の名の下に還元してしまうので、ヘーゲルの原テクストで表現されている両者の違いがかえって不明確になってしまいます。したがって、長谷川さんによる「Recht(権利=正義)」の訳し方と読み方は、ヘーゲル『法の哲学』のテクストの正確な読解を妨げるものであると言えるでしょう*2

「正義」の概念史を追ってみると、古くはアリストテレスの正義論に突き当たります。近年でも正義論に関する議論が活発ですが、正義論はもともと配分や矯正、交換に関する議論から始まったと言えるのです。正義や権利は歴史的にはラテン語のius(jus)で表現されてきましたが、ヘーゲルのテクストにおいて「正義(Gerechtigkeit)」と「権利(Recht)」が区別されるのであるならば、かつて二重の意味を持っていたiusがヘーゲルのテクストにおいてはRechtとGerechtigkeitに枝分かれしていると言えなくもないのです。そして古典的正義論は、ヘーゲルにあってはRechtよりもむしろGerechtigkeitの方に還元されています。 

ちなみに、ここで面白いのはGerechtigkeitという語が、ge-とrechtの組み合わせによって、過去の古典的iusを言い表しているように見えることです。つまり「正義」としてのiusは古典的なiusですから、ドイツ語のGerechtigkeitはそれを文字で表現しているように見えるのです。

 

文献

*1:余談。確かホッブズは『リヴァイアサン』で、人間は見た目や能力が多少異なっていてもその差異は無視できる範囲であるから、人間の自然を平等とみなしたはずだ。しかし、ホッブズはまだ、人間の生まれた家庭の資産環境には注目していなかったように記憶する。

*2:ちなみに、松井によれば、カントの場合には「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」とは厳密に区別できないという。「カントは正義を法的な枠組みの中で考えるので「正義」と「法」を厳密に区別することはできない。だが言葉のうえからいえば、「正義」はGerechtigkeitで、「法」や「権利」はRechtなので一応は区別されうる。ただし、形容詞のrechtになると両者の関係はかなり曖昧になる。その最たる例が「それ自身で、あるいはその格率からみて、各人の随意志の自由が普遍的法則に従って各人の自由と両立しうる各行為は正しい」という「法の原理」である(Vgl.VI.MS.231)。これは行為の"正しさ"を述べた原理であるから「正義の原理」としても構わない。むしろ正義のほうが法よりも外延が大きいと考えられる。アリストテレスの「全体的正義」はそうした含みを持つ概念である。それに正義は、神の審判のように、もともと宗教に密接に関連する概念である。したがって正義を法的領域に限定するのは、その本来の語義に反するようにも思える。だがカントはそうは考えない。彼はむしろ正義を宗教領域から解放して法的領域に限定することを戦略として目指している。」(松井 [2003]、17〜18頁)。

家庭用POSシステムについて ーEC市場・潜在的在庫・レコメンド機能問題への一寄与ー

Twitterで「家庭用POSシステム」なるものについて呟いたので、以下にまとめておきます。

目次

 

Amazonのレコメンド機能

コトの発端はAmazonからのおすすめメールでした。

何故か怒ってますね。私疲れてたんでしょうか…。

でも、しょっちゅう来るんですよ、Amazonからの参考にならない「おすすめメール」が。

で、なんでそういう参考にならないレコメンドが来るのか。理由は簡単です。僕が該当の商品のページを見たからです。

 僕の場合はこのブログでAmazonへのリンクを貼る際に「Amazonアソシエイトツールバー」を利用しています。「Amazonアソシエイトツールバー」でリンクを作成する為には、該当の商品ページにアクセスしなければなりません。このアクセス履歴に基づいてレコメンドメールが届くのです。 しかし、僕はAmazonのアフィリエイターではありますが、Amazonのユーザーとしてはほとんど注文しておらず、大抵リアル書店で書籍を購入してしまっているので、Amazonのおすすめとは常にすれ違いが起きてしまっているのです。

it-koala.com

 

家庭用POSシステム

そしてこの擦れ違い問題を解消する為に、僕は書斎の本をデータベース化するというアイデアに思い至ります。

ここで「家庭用POSシステム」などという単語を急に思いついたわけですが、「そもそもなんで家庭内にPOSシステムが必要なんじゃい」って自分で自分にツッコミたくなりますね。POSシステムというよりは「蔵書管理システム」とか、あるいは「OPAC(図書館蔵書検索システム、Online Public Access Catalog)みたいなやつ」といったほうが良かったかしら。家庭用なのでOPACと言ってもOPAC(個人蔵書検索システム、Online Private Access Catalog)になりますが。

it-koala.com

また上で「棚卸し並みの作業」と書きましたが、本のISBNバーコードをスキャンしてデータ化するって「棚卸し並み」どころか完全に棚卸しそのものですよね(笑)。

バーコードスキャンはスマホのカメラ機能でも代用可能ですが、蔵書数が多い場合には専用のハードを使ったほうがやりやすいかもしれません。スキャン用のハンディなスマートデバイスを買って、Bluetooth連携してみるだけです。

 

潜在的在庫

【訂正】Twitterで「書斎のデータベース化」と述べていますが、正確には「蔵書のデータベース化」です。アホですみません…。

上の部分で「潜在的在庫」なる概念を思いつきました。これは例えるならば「潜在的転職者」みたいな発想です。

僕のビジョンとしては、書籍を出品の意思がない状態でデータベース上に登録だけしておいて、市場価格を算出し、希少価値があれば出品を促すというものです。保有者(あるいは本の所有者が死んだ場合は相続者)がその商品の希少価値を知らない場合もあるので、書斎をデータベース化しておくだけでもやる意義は十分にあると思います。

ECサイトが活発になるにつれて、家庭の中にある物はそのうち全て潜在的在庫とみなされるようになるのではないでしょうか。潜在的在庫の傾向は、メルカリの登場以降、特に注目すべきだと思います。

【訂正】書斎」→「蔵書」に置き換えてください。

上の部分はつまり、購買行動のビッグデータ分析は活発だと思うのだけど、家庭の中にある物(ストック)のデータが不足しているのではないか、ということが言いたかったのです。

ホッブズの権利論——自然権と自由

目次

 

承前

今回はホッブズの権利論*1について書きたいと思います。

この記事は以下の記事の続きです。

sakiya1989.hatenablog.com

「権利」はオランダ語の regt や英語の right の翻訳語として用いられるようになりました。しかしながら、 regt や right という言葉それ自体が、ラテン語の ius の翻訳語だと考えるとどうでしょうか。もしそうだとすれば、「権利」は ius の重訳から生まれた、と言えなくもなさそうです。

 

ホッブズの「自然権

例えば、政治哲学者ホッブズは、「自然権 Right, Ius 」と「自然法 Law, Lex 」の区別に留意しつつ*2、「自然権」について次のように述べています。

〈著作者たち〉がふつうに自然権 Jus Naturale とよぶ自然の権利 RIGHT OF NATURE とは、各人が、かれ自身の〈自然〉すなわちかれ自身の〈生命〉を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている〈自由〉であり、したがって、かれ自身の〈判断力〉と〈理性〉において、かれがそれに対する最適な手段であると考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。

(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216頁)

ホッブズの言葉を敷衍すると、〈自然権〉が「自然の」と呼ばれる理由は、この権利が「自己の生命」というまさに「自然 Nature 」にかかわるものだからです。ホッブズにおいて〈自然権〉とは、自分の力(power, potentia)を行使する「自由」ですが、ここで「力」は「自己の生命を維持する」という目的に適合する限りで認められており、そのため〈自然権〉における「自由」とは極めて合目的的な、目的合理的な「自由」です*3

ここではホッブズ解釈にこれ以上立ち入りませんが、上述の引用箇所から、ホッブズが英語の right をラテン語の jus の翻訳語として用いていることがわかると思います。したがって、「権利」は right の翻訳語であると同時に jus の重訳だと言えるのです。

 

自然権」と「自由」

そしてもう1つ指摘しておくと、「権利とは正しいことである」という、まるで辞書からその内容を引っ張ってきたような説明が専門家の中にもしばしば散見されるのですが、そのような説明は同語反復(トートロジー)に過ぎません。そもそも「権利 Right 」とは「正しいこと(ラテン語の iustum 、これはもっと遡るならばアリストテレス『ニコマコス倫理学』のディカイオシュネーに該当する)」なのですから。「権利 Right 」すなわち「正しいこと ius 」とは一体何なのかを説明しないことには、「権利」を説明したことにはなりません。

ちなみにホッブズにおいて「自然権」という「権利 Right, Ius 」が、単に正しいとか正しくないという観点*4ではなく、むしろ「自由 Liberty, Libertas 」の観点から論じられている点には注意すべきかと思います。

実は私は以前、ヘーゲルの権利論の読解をまさに「権利」と「自由」という観点から注意を促した*5のですが、ヘーゲルだけでなく既にホッブズにおいても「権利」と「自由」との結びつきは非常に強いと考えられるのです。ヘーゲルの『法の哲学』の副題に「自然権 Naturrecht 」と書かれている理由も、まさに「権利」と「自由」の観点から説明できるような気がします。

ホッブズにおいて「自然権」は「力 power, potentia 」を行使する自由と言われているわけですから、「権利」と「力」が全く関係ないとは言い切れなさそうです。が、 Ius と Right の同一性という観点を持ちつつ、 Ius としての「権利」についてもう少し時代を遡ってみる必要があります。

 

文献

*1:このテーマについてはすでに素晴らしい先行研究が存在する。小林によれば「ホッブズは, 「権利が法より先に存在する」という学説を自然法の分野に適用して「自然権自然法に対する優越」という見解を導いた。その見解は近代政治思想史上最初に論じられ, しかも後世に影響を与えた見解である。」(小林 [2007]、57〜58頁)。

*2:「この主題についてかたる人びとは、権利 Jus and Lex, Right and Law を混同するのが常であるが、しかし、両者は区別されなければならない。」(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216〜217頁)。

*3:同時に我々はホッブズによる後続の「自由」についての説明を考慮に入れる必要がある。「自由とは、このことばの固有の意味によれば、外的障碍が存在しないことだと理解される。この障碍は、しばしば、人間がかれのしたいことをする力の、一部をとりさるかもしれないが、かれが自分にのこされた力を、かれの判断力と理性がかれに指示するであろうように、使用するのをさまたげることはできない。」(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216頁)。 ホッブズの論理に従えば、「外的障碍」が「生命の維持」を脅かすようなものであるならば、そのような障碍は取り除かれなければならないということになるだろう。

*4:正しいとか正しくないという観点は、ホッブズのいわゆる「自然状態」ではそもそも存在しない。「正邪 Right and Wrong と正不正 Justice and Injustice の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。」(Hobbes 1651=1668:63=65、訳213頁)。

*5:詳しくは荒川 [2017]を参照せよ。

田上 孝一[編著]『権利の哲学入門』(社会評論社、2017年)

f:id:sakiya1989:20181017200004j:plain

昨年出版された田上 孝一[編著]『権利の哲学入門』(社会評論社、2017年)には、自分も執筆者の一人として参加した。この本は二部構成であり、第一部は「権利の思想史」、第二部は「現代の権利論」となっている。

f:id:sakiya1989:20181017201236j:plain

第一部「権利の思想史」では、アリストテレス古代ローマトマス・アクィナスホッブズ*1、ロック、ルソー、カント、J.S.ミル、ヘーゲルマルクスの権利論が扱われている。このように「権利」というテーマで各哲学者・思想家の専門家が執筆した日本語の論集はこれまでになかったと思われる。その意味で画期的な本だと思う。

f:id:sakiya1989:20180501110706j:plain

 もちろん書籍として出版する以上、文字数の制限が存在する。なので、それぞれの執筆者が書きたくても書ききれなかった内容が多数存在すると思われる。かくいう自分がそうであった。「ヘーゲルの権利論」というテーマ(ヘーゲル法哲学の核心に当たるかもしれないテーマ)を頂きながら、ヘーゲルの「法律(Gesetz)」論やヘーゲルの「正義(Gerechtigkeit)」論について考えたことは、テーマ及び文字数の関係で削ぎ落とさざるを得なかった。

ヘーゲル法哲学の邦訳では、そのタイトル(『の哲学』*2からしていきなりRechtが「法」と訳されてしまうので、日本語表記では「法律」と「権利」の差異にどうしても無頓着になりがちである。そのため、本来であれば、ヘーゲルの「法律」論や「正義」論も論じることができれば、私が著した「ヘーゲルの権利論」の内容もよりクリアに伝えられることができたかもしれない。 

*1:Amazonの内容紹介では、「ホップスの権利論」と記載されているが、「ホッブズ」の間違い。

*2:Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse, 1821.

「権利」という翻訳語

今回は「権利」という翻訳語について書きたいと思います。

 

 目次

 

「権利」の「利」

一昨年、私は「ヘーゲルの権利論」(荒川 [2017])について執筆していました。その際に「権利」という言葉について色々調べてみたのですが、それによってふと気になったことは、「「権利」という翻訳語は、ドイツ語のRechtの訳語としてはふさわしくないのではないか?」ということでした。というのも、「権利」の「利」、すなわち「利益」の「利」に該当する意味が、ドイツ語のRechtには含まれていないということに気づいたからです。

かつて福澤諭吉は、rightに対して「権理」や「通義」という翻訳語を用いていました。「権」よりも「権」の方がまだ訳語として筋が通っていると思います。

しかし、「権利」よりも「権理」の方が適切だということを説明するためには、「理」の字についても十分に考察を深めなければなりません。儒教思想に通暁していた西周には、このことが十分認識されていたと言えるでしょうし、じじつ西周は「理」の字について何度か説明をしています。*1

もっとも私が論じるまでもなく、「権利」という翻訳語が適切ではないということはすでに先行研究にて示されておりました*2

 

翻訳語としての「権利」以前/以後

「権利」という語は、rightなどの翻訳語として用いられる以前に、すでに中国の古典において「権勢と利益」という意味で用いられていました(市原 [2010b])。

「是故権利不能傾也、群衆不能移也……。」(『荀子』巻第一 勧学篇第一)

「大史公曰、語有之以権利合者、権利尽而交疎。 」(『史記』鄭世家 第十二 賛)

このように「権利」という語は、rightの翻訳語として用いられるずっと前に、「権勢(power)」と「利益(interest)」という意味で用いられていたといえるでしょう。

では、「権利」という言葉をrightの翻訳語として使い始めたのは、一体誰なのでしょうか。

rightの訳語として「権利」や「権」を使用した例は、漢語訳『万国公法』(ウィリアム・マーティン=丁韙良訳、1864-1865年頃)*3にみられるそうです。そしてそれを日本明治の啓蒙知識人が転用したといわれています。

日本人による「権利」の最初の使用は、津田真道訳によるシモン・ヒッセリング著『泰西国法論』(1866年)に見られるようです*4。この翻訳書の「凡例」において津田は「ドロワ〔仏: droit〕ライト〔英: right〕レグト〔蘭: regt〕」について次のように説明しています。(ただし文字が読み難く書き起こしが面倒なので、本書からの引用は画像で示します。)

f:id:sakiya1989:20180508223332j:plain

f:id:sakiya1989:20180508223351j:plain

(上の画像は国立国会図書館デジタルコレクション - 泰西国法論. 巻1から)

 『泰西国法論』の「凡例」では、「権」の一文字だけが登場し、「権利」の二文字は用いられていません。同書で「権利」がはじめて登場するのは、以下の部分です。 

f:id:sakiya1989:20180509002804j:plain

上の画像の3行目の「人民の権利平安を保護を可き事」という箇所に「権利」の使用が確認できます。とはいえ原語を確認していないので、この「権利」がregtの訳語かどうかは注意が必要です。私の直観的な推測に過ぎませんが、「人民の権利平安」はSalus populi*5のことを意味しているのかもしれません。

 

また津田真道と同時代に「権利」の二文字を使用した例は、加藤弘之『立憲政体略』(1868年)にもみられます(市原 [2010b])。

f:id:sakiya1989:20180426144948j:plain

(上の画像は加藤弘之『立憲政体略』近代書誌・近代画像データベースから)

 

ここで一旦、西周の「権利」に注目してみましょう。

大野達司は、西周功利主義に依拠した「人世三宝説」*6で、rightを「権利」とした、と述べています(大野 [2016]、11頁)。西による「権利」の使用例をみてみましょう。

「政府という会社は他の会社をも管轄するの権利を有す。」(人世三宝説5)

「然り而して三宝の道学に在ては人世社交を認めて個々人々交互に同一権利を有するものとす。」(「人世三宝説」7)

上の2つの引用文を見ると、「政府」の権利と「個々人」の権利の2つが出てきます。一見すると「政府が権利をもつ」という西の主張は、よくわかりませんね。「政府」の権利があるとすれば、それはright(権利)ではなくpower(権力)ではないかという気がします。現代においても「権力」の「権」(例えば立法権の「権(Gewalt)」)と「権利」の「権」(所有権の「権(Recht)」)は混用されるのが通常ですが、西周は「権利」を「権力」として用いているのでしょうか。私にはよくわかりませんが、少なくとも鈴木修一先生は、この箇所を解釈して、西周は「権利」が「義務」の意味で使われているように思われると述べています。

「政府という会社は三宝のすべてを貴重増進するのを保護することを目的として設けられたのだから、「此由縁ヲ以テ」「他ノ会社ヲモ、管轄スルノ権利ヲ有スルナリ、譬ヘバ貨殖ノ会社モ、工業ノ会社モ、教法(=教門)ノ会社モ、三宝保護ノ権義ニ渉ル丈ノ所ニテハ、他ノ会社ヲ、管理スヘキノ義務アルナリ」(同右)と言われるが、少々解りにくい。ここに「権利」「権義(=権利義務)」「義務」ということばが出てくるが、「管轄スルノ権利」が「三宝保護ノ権義」となり、「管理スヘキノ義務」となるに至って、「権利」と「義務」ということばが、同じ意味で無差別に使用されているが、ここではむしろいずれも「義務」の意味で使われているように思われる。そうでないと、保護することが政府の機能である以上、それを義務でなく権利とすることは、政府の統制機能を強め、保護機能を逸脱してしまうことになるだろう。もっとも、当時の明治専制政府は、それを権利として行使し、殖産興業をはかり、富国強兵化を目指そうとしていたことから、現実は権利だったのかもしれないが。」(鈴木 [2005]、32〜33頁)。

西周が生きていた当時、明治啓蒙知識人たちにはハーバート・スペンサーの社会有機体説や社会進化説、J.S.ミルのいわゆる「功利主義」が受容されつつあり、実際にJ.S.ミルの『利學(Utilitarianism)』*7を翻訳していた西周としては、「権利」という翻訳語によって、儒学においてネガティブに捉えられていた「利」*8をポジティブなものへと転化しようとしていたのではないかと考えられます。

ちなみに「利」という言葉で観念されるのは、「利益(interest)」という意味と「功利(utility)」という意味の2つがありますが、西周が「権利」という言葉を用いた際に、「利」のなかに込めた意味はinterestとutilityのどちらでしょうか。おそらく両方でしょう。まず「人世三宝説」には「私利(self-interest)」の追求と、社会目的としての「公益(public interest)」が登場しますので、西が「利益(interest)」の意味を意識していなかったとは言い切れないでしょう。そして同時に、大野が指摘するように、西は功利主義的な意味での「利」を観念していたでしょう。

ここで「権利」の「利」の字に対する私の違和感を解消する手がかりとして、功利主義的な意味での「利」に注目してみます。功利主義における「利(utility)」には、「政府」すなわち統治の観点が入ってきます。

「効用原理(principle of utility)とは、その利害が問題となる人々の幸福を増加させる見込みがあるか、もしくは減少させる見込みがあるかどうかに基づき、[…]すべての行為を是認ないし否認する原理である。すなわち、私の言うすべての行為には、私的な諸個人のすべての行為だけでなく、政府のすべての政策もが含まれる。」(ベンサム [1967])。

ここではベンサムの「功利原理」を引きましたが、「政府のすべての政策」をも含意する「功利原理」は、おそらくJ.S.ミルにも多少違った形で引き継がれていると思われます。

このように「権利」の「利」を、中国古典に見られる「権勢と利益」の系譜ではなく、功利主義の系譜に位置付けると、あらためて違った見方ができるのではないでしょうか。

 

「権利」の「権」

先に述べたように、私は「権利」の「利」の字に対して、翻訳語として違和感を覚えていたのですが、最近は「権利」の「権」の字にも違和感を覚えるようになりました。

「権利」の「権」はもともと「権勢」の「権」すなわち「力(power)」を意味します。しかし、柳父章は「rightは力ではない」(柳父 [1982]、161頁)と述べているのです。もし柳父が指摘するように「rightは力ではない」のであれば、「権利」の「権」は翻訳語としてふさわしいのかという疑問が生まれます。

「権」は、例えば「君主権」「立法権」「統治権」の訳語として用いる場合にはふさわしいと言えるでしょう。なぜならこれらの「権力(英語のpower、ドイツ語のGewalt)」はまさに「力(power/Gewalt)」に他ならないからです。

このように「権」という言葉は、「権力」の「権」としてはふさわしいと言えますが、では「権利」の「権」としてはふさわしいと言えるのでしょうか。

この点を考察するためには、我々は「力(power/Gewalt)とは何か」について考える必要があると思いますし、また「権利」の概念史に遡って考える必要があると思います。

そこでまず手引きとして、西欧近代における「権利」の用例を見ていきましょう。

 

以下の記事に続く。

sakiya1989.hatenablog.com

 

文献

*1:西周「尚白箚記」及び「理ノ字の説」。

*2:詳しくは、柳父 [1982]、大野 [2016]を参照せよ。

*3:Henry Wheaton, Elements of International Law, 1836.

*4:市原 [2010b]。ちなみに細かい点を指摘しておくと、市原は「「権利」という言葉が日本語のなかに登場するのは幕末から明治維新にかけての頃である。フィッセリング口述・津田真一郎(真道)訳『泰西国法論』(初版 1866)の「凡例」のなかで用いられたのがもっとも早い例として知られている。」(市原 [2010a]、16頁)と述べているが、私見では『泰西国法論』(明治八年=1875年、文部省)の「凡例」のなかで用いられていたのは「権」の一文字であって、「権利」ではなかった。この点では、市原自身による次の説明の方が正確であると思われる。「日本における近代的「権利」の使用例としては、「権」という一語を使っている例ではあるが、ヒッセリング著・津田真道(真一郎)訳『泰西国法論』(初版1866年)の「凡例」における用例が先にあ」る(市原 [2010b])。

*5:"Salus populi suprema lex." Cicero, De legibus, 3.8.

*6:西のいう「三宝」とは「健康(マメ)」「知恵(チエ)」「富有(トミ)」の3つのことである。「人世三宝説」(『明六雑誌』第三八号、明治八年=1875年)の読解については、後藤 [2000]や、菅原 [2002]をみよ。

*7:原著は1861-63年出版。西周訳は1877年出版。

*8:「利によりて行へば恨み多し」「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」(孔子論語』)

通俗の弁証法 あるいはカント・ドイツ通俗哲学・西周

目次

 

はじめに

小谷英生さんが博論出版に向けて準備をしているようだ。

 小谷さんはカントの専門家だが、ドイツ通俗哲学についてものすごくよく調べている。小谷さんの博論が出版されれば、ドイツ通俗哲学の必須参照文献になるはずだし、ドイツ通俗哲学が明らかにされることによって、ライプニッツ=ヴォルフ学派の講壇哲学を自覚的に継承したカントの批判哲学の独自性がよりいっそう際立って見えるようになるだろう。この辺りに小谷さんの博論出版の意義があると個人的には理解している。

出版タイトル案を一つ挙げるならば、『ドイツ通俗哲学の思想圏ーカント批判哲学の黎明期ー』とかどうでしょう。コモンセンスをタイトルに入れるセンスが、僕にはない。

 

ドイツ通俗哲学 ガルヴェとカント

さて、今回はドイツ通俗哲学についてざっと調べてみた(30分ぐらいで)。

まず「通俗的」という言葉について。ガルヴェは「通俗的」について次のように述べている。

「私は通俗的という言葉を二重の意味で受け取る。通俗的に書かれた本とは、学者のみならず広く大衆にとって理解しやすく大衆の気にいる本である、あるいは民衆の低い層向けに書かれその理解力に適した本である。」ガルヴェ『論議の通俗性について』(渡辺 [1976]、446頁)。

つまり、通俗化には、内容のレベルを落とさずにわかりやすくしたものと、内容のレベルを落としてわかりやすくしたもの、という二重の意味がある。このようにガルヴェは考えた。したがって、ドイツ通俗哲学とは一種の啓蒙活動といえるかもしれない。ある事柄が通俗化されることで、広く大衆が理解できるようになれば、それはそれで素晴らしいことである。

啓蒙とはやや異なるが、翻訳にはある種の通俗化の精神が必要だといえる。ガルヴェは、アダム・スミス国富論』ドイツ語訳の最初の訳者であり、またファーガソンの著作を翻訳した。ガルヴェがかなり難しい外国の本をドイツ語に翻訳し民衆が読めるようにした功績は大きい。この意味で、ガルヴェはスコットランド哲学をドイツの民衆に向けて通俗化したと言える。

ちなみに、私見によれば、通俗化は、ある程度一般化すると逆転現象が起こる。民衆がわかりにくいものを受け入れず、わかりやすさを求めるようになるのだ。これすなわち通俗の弁証法Dialektik der Popularisierungである*1。健全な理性が、いつの間にか民衆の感性の奴隷となる。学校の教師も同じかもしれない。わかりにくい教師は糾弾され、わかりやすい教師が重宝される。最近の日本の出版物を見ると「これでわかる〜〜」とか、とても「通俗的な」ものが多いように感じられる。テレビ番組の「池上彰の〜〜」も通俗的だ。 日本の教養番組とはいわば通俗番組なのだ。

カントによると、形而上学という学の進歩を考えると話は別である。カントは「通俗的な」やり方に限界を感じざるを得なくなり、その結果、カントが『純粋理性批判』において採用したのは「講壇的な」やり方だったという。

「批判は学としての基礎的形而上学を促進するために予め必然的になされるものであり、この形而上学は必然的に独断的に、もっとも厳密な要求にしたがえば体系的に、したがって講壇的に schulgerecht通俗的にではなく)遂行されねばならない。」カント『純粋理性批判』第二版序文(小谷 [2015]、10頁)。

ドイツ通俗哲学の存在を現代の我々に伝えているのは、ドイツ通俗哲学者の著作それ自体というよりも、むしろカントの記述によるものである。カントの批判哲学は哲学史に名を残したが、ドイツ通俗哲学はほとんど忘れ去られた。しかし、講壇的に遂行されたカントの批判哲学は、当時はほとんど理解されなかった。 

 

西周の通俗性

ところで、通俗哲学を西周の話に引きつけると、西は日本の通俗哲学者だといえるかもしれない。例えば、西の講義録である「百学連環」のなかで、西は「自在(liberty)」を説明する際に、魚が自由に泳ぎ回る例を用いて、通俗的に説明している*2

「西洋も古昔は皆演繹の學なりしか、近來總て歸納の法と一定せり。今物に就て眞理の一二を論せんには Politics 政事學なるあり。其中一ツの*3眞理は liberty 卽ち自在と譯する字にして、自由自在は動物のみならす、草木に至るまて皆欲する所なり。譬えは茲に魚あり、之を一ツの小なる溝に育ふ。然るに今其溝と他の川河と相通せしむるときは、魚尚ホ其小なる溝に在ることを欲せすして必す他の廣き川に逃れ出るなり。又草木の枝の既に延んとする所に障りあるときは、必す其障りなるものを避けて他に延ひ出るなり。」「百學連環」第39段落第16文~21文、下線引用者(山本 [2016]、292頁)。*4

西洋の言葉を説明するにはある程度の通俗化はやむなし、ということだったのかもしれない。しかしながら、西による魚が泳ぐ例を注意深く読んでみると、「障り」という、「自由」にとって重要なキーワードが浮かんでくる。実は「障り」というのは政治哲学者ホッブズが「自由(liberty)」を説明する際に用いたキーワードなのである。

「自由(liberty)とは、このことばの固有の意味によれば、外的障碍が存在しないこと(absence of external impediments)だと理解される。」(ホッブズ [1992]、216頁)。

西は「自由」を説明する際に泳ぐ魚というわかりやすいイメージに訴えてはいるが、魚が「障り(impediment)」を避けて泳ぐという説明は、「自由(liberty)」の本義に照らしても適切なのである。 

 

文献

*1:すいません、こんな言葉ありませんw。

*2:西の通俗的な説明は「演繹を猫とネズミに譬える」(山本 [2016]、276頁)ところにも見える。

*3:原文ママ。「無二の」ではないか?

*4:この部分はウェブでも読める。

大学とはメディアなのか

 前回の記事で大学についてちょろっと書いたので、久しぶりに吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、2011年)を読み直してみました。大学の歴史についてとてもコンパクトにまとまっていて、とても820円で買える内容とは思えないほど素晴らしいです。

 僕がこの本を読んで大学について再度学んだことは多いです。しかしながら、「大学とは、メディアである」という吉見氏の結論だけは、どうにも解せないのです。

「大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。その媒介の基本原理は「自由」にあり、だからこそ近代以降、同じく「自由」を志向するメディアたる出版と、厭が応でも大学は複雑な対抗的連携で結ばれてきた。中世には都市がメディアとしての大学の基盤であり、近世になると出版が大学の外で発達し、国民国家の時代に両者は統合された。そして今、出版の銀河系からネットの銀河系への移行が急激に進むなか、メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある。」(吉見 [2011]、258頁)。

メディアとは媒介のことです。大学が「人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する」がゆえに、大学とはメディアであるというわけです。

 言い得て妙ですが、個人的には、大学とメディアを一旦区別して、(良くも悪くも)大学はメディアと一蓮托生なのだと言った方が良さそうな気がします。日本の大学は岩波書店というメディアを支え、また支えられてきました。中央公論や世界といった論壇メディアもまた然りです。

 もし吉見氏の述べるように図書館や劇場、広場といった場所や空間がメディアであるということは、かつて近代市民社会の世論を形成する社交場としての役割を果たしたコーヒー・ハウスやカフェはメディアであったと言えそうです。このような主張は比喩的で興味深いのですが、しかしメディアの概念がやや広がりすぎているように思います。なにせ「人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する」というだけなら、どんな場所でもメディアになり得ますから。町の商店街でも、井戸端会議でも、出会い系チャットでもメディアになり得ます。なので、試しにこう考えてみましょう。メディアを支えるのはテクノロジーであると。

へーリッシュ『メディアの歴史』(法政大学出版局、2017年)という本があります。

この本の目次を参考にすると、例えば「ノイズ、声と像の生成、文字の発明、活版印刷、新聞雑誌・郵便、写真、録音、映画、ラジオ、テレビ」などがメディアの歴史として取り上げられています。活版印刷や、新聞雑誌、写真、録音、映画、ラジオ、テレビは、何らかの知識・情報を媒介するテクノロジーに支えられています。

 もし吉見氏の述べる通り大学がメディアなのだとすれば、大学というメディアの中で、教員と学生が文字や印刷物、写真、映像音声といったメディアを通じて知を媒介しているのだということになります。そうすると、大学という大きなメディアの中に、個別のメディアが存在するという入れ子構造になります。この入れ子構造こそが、何だか落ち着きが悪く、僕が腑に落ちない理由です。なので、個人的にはメディアという語をもう少し限定して使いたいです。メディアとは媒体ですが、それは何らかのテクノロジーに支えられており、道具のようなものだと思います。

 コミュニケーションあるところにメディアあり。この「はてなブログ」もメディアですし、Mediumもメディアですし、noteもメディアです。メッセージや写真を発信し、見知らぬ人と人とを媒介するTwitterFacebookのようなSNSは、現代の代表的なメディアです。Youtubeのように大学の講義をコンテンツとしてネットで共有できるプラットフォームもまたメディアだと言えます。これらが全てメディアなのは、そもそもインターネットが本質的にメディアだからです。スマートフォンの普及とそのモバイルデータ通信の利用によって、今、メディアはとても広がっているのです。現代とはメディアが遍く存在する時代であり、陳腐な言葉で言えばユビキタスの時代です。

 このような状況下で、「大学とは、メディアである」という吉見氏の結論は、大学というものを、大学の固有性を、大学の種差を説明していると言えるでしょうか。

 ここであえて述べるならば、僕にとって、大学とは教育のサークル*1・コミュニティ*2であり、知の制度的空間です*3

 文字や印刷物、映像などのメディアを媒介として伝達されるのは、何らかの情報です。大学においては、教師の所有物である知の情報、知の技法が、そのようなメディアを通じて人々に受け継がれます。これは教師の知的財産を譲渡したと言えます。教科書や書籍は、教師の知的財産を外化したものです。ただしデジタル化とインターネットの普及によって、この点での独自性は薄れています。

 他方で、近年、大学の危機が叫ばれているのは、大学に市場経済システムが導入されたからです。大学は研究によって、知の遺産を拡大再生産しなければなりません*4。しかし、知の遺産の拡大再生産は、時とともにその生産性を減らしていきます(逓減の法則)。生産性の低い分野に見切りがつけられるようになると、その分野によっては知の遺産の単純再生産さえもままらなくなって来るでしょう。

 先に述べた通り、大学がメディアと一蓮托生であり、現在最も普及的なメディアがインターネットになりつつある以上は、大学はインターネットというメディアを媒介として生き残っていくことになるかもしれません。 

文献

*1:古典ギリシアのエンキュクリオス・パイデイアを念頭に置いている。

*2:大学がコミュニティであるがゆえに、移動が可能である。中世イタリアの大学(教師と学生のウニベルシタス)は自治都市を移動できた。

*3:ちなみに綾井によれば、これまでに「メディアとしての大学(吉見氏)」「知的組織体としての大学(松浦氏)」「古典的学問観の担い手としての大学(金森氏)」という3つの大学像が示されてきた(綾井 [2013]、190頁)。

*4:大学が研究中心という考え方はいわゆる「フンボルト理念」あるいは「ベルリン・モデル」によるものだが、最近ではフライブルク大学パレチェク教授によってその神話性が指摘されているようだ。詳しくは、潮木 [2007]をみよ。「神話」とはいえ、「フンボルト理念」が後にアメリカや日本の大学に対して影響を与え続けてきたことは疑いようがない。