こんにちは。
前から気になっていたPython。今日はじめてPythonに触れました。ついに私もPythonデビューです。
今日はずっと湯本堅隆 著『独習Python入門』(技術評論社、2016年)を片手にPythonファイル(.py)を作っていました。初学者向けにとてもいい本です。非エンジニアの僕でもPython動かせたんだから(笑)
こんにちは。
今回はデバイス固有の利用価値について考えてみたいと思います。
突然ですが、皆さんはインターネットをする際に、どのデバイスを利用しているでしょうか?
デバイスとは具体的にはスマホやタブレット、パソコンのことを指しますが、同一人物でも、ある時はスマホを使ったり、ある時はタブレットを使ったり、またある時はパソコンを使っているかもしれません。
実際、僕はiPhoneとAndroid(スマホ)、iPad Air2(タブレット)、MacBook Air(ノートパソコン)のいずれかでインターネットを利用しています。外出中にパソコンをインターネットに繋げる時は、スマホのテザリング機能を使っています。ちょうどこのブログを書いている今もテザリングを利用して打ち込んでいます。
さらに僕はデバイス内でも利用ブラウザをChromeにするかSafariにするか、利用内容に応じて変えています。Safariの方が動作が速かったり、Chromeの拡張機能を使うためであったり、どちらか一方では動作対応していないページがあったり、片方に履歴やブックマークが記録されているからであったりと理由は様々ですが、これらの理由をそれほど意識しないまでも自然と使い分けています。
さて、これら複数のデバイスを使い分ける中で僕が思ったのは、デバイスにはデバイス固有の利用価値があるのではないかということです。
どういうことか。
デバイス固有の利用価値を説明するために、まずはいくつか使い分ける場面を想定してみましょう。
さしあたり思いついたのは次の二点です。
一つは、ファイルの作成段階なのか、完成ファイルを閲覧するのか。
もう一つは、ネットサーフィンする時です。
例えば、パワーポイントのようなスライド形式で作成されたファイルを閲覧するには、タブレットが適しているように思います。情報も視覚的に入って来やすいですし。
しかし、エクセル、ワード、パワーポイントのようなファイルを1から作る場合には、パソコンの方が適しているように思います。もちろんスマホやタブレットでもこれらのファイルを編集できないこともないですし、数値入力に適している面もあるかもしれませんが、とはいえ一部の機能が制限されて使えないこともありますので、ファイル作成段階ではパソコンが適していると言わざるを得ません。
自分はブログの文章を入力するのはもっぱらパソコンですが、ブログ記事のために画像を探したり取り込んだりする場合には、スマホで撮影した写真やタブレットでスクショした画像をiCloud経由で読み込んでいますので、結局のところ各デバイスの便利な面を組み合わせて複合的に利用しています。
どうもスマホやタブレットでネットサーフィンをする時と、パソコンでネットサーフィンをする時とでは入ってくる情報に差があるような気がしてなりません(ヒロシ風)。
例えば、スマホだったらニュースを見る(外出中に立ちながらでも利用できる)、タブレットはスマホの内容を大画面で見たいときに使う(座って使うと便利)、パソコンは文章入力に使う、というように利用シーンに応じて使い分けることができると思います。さらに利用シーンに応じて使い分けると、その都度の目的も変わってくるので、検索ワードや興味関心も変化するように思います。なので、パソコン利用中は堅いワードで検索するけど、スマホ利用中はゆるいワードで検索している、ということも考えられます。
したがって、スマホはちょっと気になったワードを調べるのに便利ですが、しっかりと情報収集するのであればスマホよりもタブレット、タブレットよりもパソコンの方が優れている、といえるかもしれません。
またタブレットやパソコンであれば、ブラウザで複数のタブを表示しておくことができるので便利です。もちろんスマホのブラウザでも複数ページを扱うことができるのですが、スマホだと画面が小さい上にタブの切り替えが面倒です。僕は検索する時に、ブラウザタブを同時に6個も10個以上も沢山開くことが多いので、スマホでは物足りないです。
とはいえ、スマホはアプリを使うとものすごく便利ですし、アプリの場合はスマホやタブレット固有の利用価値があると言えます。
僕はパソコンを使うのもタブレットを使うのもスマホを使うのも好きですが、以上の理由からデバイスをいずれか一つにしろと言われたら結構難しいですね。でも、頑張ればどれか一つで全ての機能をやりくりすることも不可能ではない気がします。(ただ僕は無理して頑張るのは嫌いなんでやりません笑)
こんにちは。
ブログテーマを変えてみました。
背景色の暗いものを選んでみましたが、いかがでしょう。
個人的には、リンクが緑色や水色に光るのがカッコ良くて気に入っています。
タイトルの両サイドに/* */が入るのは、よく分かりませんがそういう仕様っぽいです。
加えて、このブログにGoogleアナリティクスを導入しました。
Googleアナリティクス超便利です。なんでもっと早く導入しなかったんだろう。
仕事でデータ記録してるとやっぱり数値分析大事だな〜って思う今日この頃です。
もうデータって見てるだけで楽しくないですか。
思わぬ発見があったりとか。
あとプログラミングで学びたい言語がいっぱいあるのに、なかなか進んでいない状況です。
とりあえず着目してるのが、以下の言語です。
それにしても思っているだけで一向に上達しない…。
昨日ようやくドットインストールとGitHubに登録したぐらい。
こんにちは。
今回は「不気味の谷(uncanny valley)」という現象について書きたいと思います。
「不気味の谷」とは、ロボットが人間に極めて近づいてくると、ある一定の段階で不気味に感じられるようになる現象のことを言います。
「不気味の谷」という発想は、1970年に森政弘先生が書いたエッセイに端を発しています。森政弘先生のこのエッセイ(所収:『ENERGY』第7巻第4号、1970年)は、下(↓)のGetRoboというサイトで全文が読めます。
WIREDの記事に載っているような研究による「不気味の谷」現象の証明以来、「不気味の谷」はロボットの顔や身体に対する人間の反応として理解されているように思われますが、しかし、森政弘先生のエッセイを読むと、「不気味の谷」は当初、ロボットに対する反応だけでなく、「動く死人」や「能面やせ男」などに対する反応としても考えられていたことが分かります。このことは、ロボットではない我々人間が非人間的な振る舞いをすることによっても、「不気味の谷」を作り出すことができることを意味します。
ところで、「不気味の谷」は、今でこそロボット研究者にとっては避けるべきものと考えられています。
しかし、「不気味の谷」という人間の反応をあえて利用することを考えても良いのではないか、と私は思います。「不気味の谷」は、それを超えて親近感を持たせることがロボット開発の基準になるとともに、「不気味の谷」をうまくコントロールして利用できるようになったら、より面白いことができそうではないでしょうか。
例えば、今は夏です。テレビでも映画でも、夏は怪談話とかホラー映画をやっていますよね。ならば、「不気味の谷」を応用して、不気味に感じられるホラー映画を意識的に作ってみたり、あるいはディズニーランドのようなアトラクションで、いかにも不気味に感じられるものを用意しても良いんじゃないでしょうか。CGクリエイターが、不気味なものをプロモーションビデオに応用しても良いと思います。(あ、もちろん炎上しない程度にね!それも狙ってやるなら別だけど!)
ちなみに、不気味なものに対する反応は人それぞれだと思いますが、すでに「不気味の谷」をあえて利用することを試みた人がいました。ドワンゴの川上さんです。「不気味の谷」現象の興味深いサンプルとして、宮崎駿監督の反応が参考になると思います。
こんばんは。
昨年12月よりブログを始めて8ヶ月ぐらい経ちました。
突然始めたブログですが、非常に楽しく続けております。
本当にブログを始めてよかったなぁ、とつくづく感じております。
今回は、このブログのタイトルについて説明したいと思います。おそらくちゃんと説明した記事がまだなかったので。
このブログのタイトルは「全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログ」ですが、実際にはごく一部ロジカルに展開されている記事もあったかもしれません。
「全然ロジカルじゃない」としているのは、わざと「全然ロジカルじゃない」記事を目指しているのではありません。厳密にロジカルであることを追求しないという意味で「全然ロジカルじゃない」としています。
というのも、気軽に記事をアップできることがブログのメリットであるのにもかかわらず、もしブログ記事で厳密にロジカルであることを追求してしまうと、僕は論文書くのと同じぐらいの推敲を重ねてしまうので、いつまでたっても記事をアップできないという矛盾に陥り、結果的にブログのメリットを潰してしまうことになります。記事の中で展開されている僕の思考には当然ヌケモレがあるかもしれないし、具体的な数字もほとんど提示しないままアップしているから「全然ロジカルじゃない」のです。(ただし、書くスピードで思考できる限りにおいては、ロジカルさを減じていません。)
ロジカルが決して悪いわけではなく、言語表現である限り一定のロジックは当然必要ですが、しかしロジックだけで新しい発想やひらめき、着想を書き留めることは不可能です。このブログでは、厳密なロジックよりもひらめきや着想を大事にするために、「全然ロジカルじゃない」とタイトルで断っているのです。
後半の「書きたいことをひたすら書くブログ」はまさにその言葉の通りで、僕が書きたいことをひたすら書いています。
実は自分が書きたいことを書くというのは、好き勝手に書いているようで意外と難しいのではないでしょうか。なぜなら、自分の興味関心というのは、本当に自分がそれに興味を持っているのか、はたまた他人の影響を受けたものかもしれないからです。
自分が何が好きなのか、何に興味を持てるのかを毎日自分に問い続けていかなくては、自由に書きたいことも書けません。ブログはインターネット上に公開されていますが、この読者をある特定の層や知り合いだとかに周知してしまうと、そのような想定される読者層に合わせた記事を書くようになってしまうのではないかと危惧します。
このブログの説明の最後に「ノンロジカルエッセイ。」と書いてあるのですが、フランス語のessaiは「随筆」という意味の他に「試み」とか「企て」という意味を持っています。
このブログで扱うテーマはビットコインであったり、VR・ARであったり様々ですが、テーマがあちこち飛ぶのは、僕が新しいテーマに触れ、書きながら、別の発想を「試み」ているからです。
これは一人でブレストをやっているようなものです。毎日何かしらの着想が出てくるので、それをそのまま書き出してブログの記事として載せているだけです。ブログを書くためにネタを探すようなことは一切やっていません。
ちなみに、吉本隆明さんの代表作に『マチウ書試論』というものがありますが、あれはもしかすると、ロジックだけで書いているのではないという意味で「試論」となっているのかもしれませんし、そうであるとすれば「試論」と呼ばれるものをロジックだけで読み解こうとするのは間違っていると言えるのかもしれません。
最後に、鎌倉時代の代表的な随筆家がエッセイの本質を言い表しているので、引用して閉めたいと思います。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(兼好法師「徒然草」)
こんばんは。
今回はアニメ『PHYCHO-PASS サイコパス』に出てくるガジェットについて書きたいと思います。
ちなみに、このアニメについては昨年末にも少し書きました。
やっぱり良いんですよ。特に2期ね。
なので今日もまた見て、「このガジェットどうやって作るのかなぁ?」って考えてしまいました。
さて、今回注目するのは、登場人物(主に監視官か執行官)が身につけている腕時計と、車のデジタルタコメーターのディスプレイです。
まずはこれ見てください。
(アニメ『PHYCHO-PASS サイコパス2』第1話「正義の天秤<299/300>」より)
これらをなんと呼ぶのかわからないけれども、どうやら空中に画面表示してますよね。
普通、スクリーンならば何か物質に投影するんだと思うけれども、これは何に映しているんだ?
(アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』第1話「犯罪係数」より)
デジタルタコメーターは単色ですが、腕時計は正面から見るとフルカラー表示されており、どちらも透過性がありますね。
そしてこの腕時計、超高性能です。SoCもバッテリーも超小型化されている。通話もできて、高速通信もできる。ただし、写真は撮れるかなぁ?少なくとも、この小さな腕時計の中に、今のスマホ以上の機能と性能が全て入っているわけです。
このガジェットと比較すると、Apple Watchやスマートウォッチなんてまだまだ序の口ですよね。
これどうやって作るんだろうね?誰か開発しようよ!
こんばんは。
今日はUnityというソフトをインストールしてみました。
Unityは少し前から気になってはいたのですが、なかなか手がつけられずにいました。
なので、ついに念願の?Unity着手。
まだインストールしただけなので、何もしてないですよ。